太田述正コラム#13614(2023.7.19)
<宮野裕『「ロシア」は、いかにして生まれたか』を読む(その28)>(2023.10.14公開)
「こうして、北東ルーシ諸公がキエフへの関心を失うなかで、両者の関係を結び続け、また結び続けようと努力を重ねたのがルーシ教会でした。
その長であったキエフの府主教たちはモンゴルによるキエフ征服後、その意味で大きな役目を果たしたと言えます。
⇒そう。そのことが念頭にあって、ソ連時代のロシアは、ロシア正教の代替物として、コミンテルンを作ったのでしょうね。(太田)
1240年のキエフ陥落ののち、南西のガーリチ公ダニール<と親しかった>キリル<(注51)>・・・が府主教になりました。
(注51)Kirill II of Kiev=Cyril II (Metropolitan of Kiev)(在位:1242~1281年)。’Around 1243, Cyril was elected by the Council of Bishops with the support of Prince Daniel Romanovich Galitsky as the new primate of the Russian Orthodox Church, for the Kiev cathedra was empty after the capture of Kiev by the Mongol Khan Batu.
In 1246 – 1247, Cyril traveled to Nicaea to the Patriarch of Constantinople Manuel II for official installation on the Kiev (Russian) Metropolis.
Until 1251 he was close to Prince Daniel Romanovich of Galicia. In 1246, on the way to Nicaea, he negotiated with the Hungarian king Bela IV Arpad, which ended with the marriage of the Hungarian princess and the son of Daniel of Galicia. In 1250 he brought his daughter・・・as a wife to Grand Duke Andrei Yaroslavich of Vladimir. However, around 1251 he left Daniel of Galicia, who in 1254・・・<obtained> the recognition of the Galicia-Volyn principality as a kingdom・・・<and> accepted the royal crown from the Pope.・・・
In 1252, the Novgorod prince Alexander Nevsky received a label for the Vladimir reign instead of his brother Andrei Yaroslavich, and the metropolitan solemnly greeted Alexander Nevsky, who had returned from the Horde, and put him on the great reign. Like Prince Alexander Nevsky, Kirill chose in his policy the path of recognizing the domination of the Mongols and opposing Western Catholic expansion.・・・
In 1261, with the assistance of Alexander Nevsky, he founded an Orthodox diocese in Sarai.’
https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%9A%D0%B8%D1%80%D0%B8%D0%BB%D0%BB_II_(%D0%BC%D0%B8%D1%82%D1%80%D0%BE%D0%BF%D0%BE%D0%BB%D0%B8%D1%82_%D0%9A%D0%B8%D0%B5%D0%B2%D1%81%D0%BA%D0%B8%D0%B9)
このキリルは、結果としてですが、自立しつつあった北東ルーシとキエフ地域とをつなぐ役目を果たしました。
彼の管区「全ルーシの府主教区」は、世俗諸公国が徐々に遠心的にキエフから離れていったあとにも、すべての諸公国の宗教的指導をその任務としつづけました。
つまり、世俗の国境線を越える形でキエフからあらゆる正教徒に宗教的指導を行ったのです。
キリルの称号「全ルーシの府主教」は象徴的です。
すべてのルーシ地方が教会制度上、彼のもとに置かれたのです。
実際、1274年には全ルーシの地域の主要主教たち(ノヴゴロド、ロストフ、サライ、ポロツク、キエフ。キエフはキリル自身が司牧者)を集め、モンゴル侵攻後で最初の主教会議を開催しています。・・・
⇒基本的にモンゴルに対する抵抗を続けたダニール
https://en.wikipedia.org/wiki/Daniel_of_Galicia
にとって、キリルがキエフ府主教として行ったこれらのことは、余り気に沿わないものであったと考えられるところ、ダニールが異を唱えた形跡がないのは、彼の母親のアンナ(~1253年)・・彼の父親の死後摂政を勤めた・・がビザンツ帝国の皇帝の娘だった
https://en.wikipedia.org/wiki/Anna-Euphrosyne
ので、ビザンツ皇帝/コンスタンティノープル総主教、の意向に逆らえなかったからでしょうね。
とまれ、ダニールは、ウクライナならぬ、それとは微妙に異なるところの、ウクライナ西部地方、の原点たる人物であると言えそうです。(彼の銅像が、現在のウクライナ西部のハールィチナー(ガリツィア)地方のリヴィウ(Lviv)とハールィチ(Halych)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%A6
に立っています。)(太田)
キリルを継いだマクシム<(注52)>は1299年に「タタールの暴力がひどかったので」キエフを離れ、北東のウラジーミルに居を移しました(正式な府主教座は依然としてキエフでした)。
(注52)Maximos, Metropolitan of Kiev and All Rus’(在位:1285~1305年)。’He is Greek by nationality. ・・・He arrived in Russia from Constantinople in 1283.’
https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%9C%D0%B0%D0%BA%D1%81%D0%B8%D0%BC_(%D0%BC%D0%B8%D1%82%D1%80%D0%BE%D0%BF%D0%BE%D0%BB%D0%B8%D1%82_%D0%9A%D0%B8%D0%B5%D0%B2%D1%81%D0%BA%D0%B8%D0%B9)
キリルが北東で長期間滞在したことはマクシムが北東ルーシを選択する一因になったと思われます。
⇒ギリシャ人聖職者がコンスタンティノープルから落下傘的に「全ルーシの府主教」として送り込まれてきたというのですから、まだこの時点では、ルーシ地域の権力者と「全ルーシの府主教」とが癒着していたとか一体であった、とは全く言えなさそうですね。(太田)
彼を継いだピョートル<(注53)>(在位1308~26年)は、・・・当時のウラジーミル大公であったトヴェリ公ミハイルと衝突し、1325年にはトヴェリのライバル国のモスクワに居住地を移すことになります。
(注53)Peter (Metropolitan of Kiev)(1260~1326年。在位:1308~1326年)。現在のウクライナ北西部のヴォルィンシカ(Volyn)に生れる。
https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%9F%D1%91%D1%82%D1%80_(%D0%BC%D0%B8%D1%82%D1%80%D0%BE%D0%BF%D0%BE%D0%BB%D0%B8%D1%82_%D0%9A%D0%B8%D0%B5%D0%B2%D1%81%D0%BA%D0%B8%D0%B9)
https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%92%D0%BE%D0%BB%D1%8B%D0%BD%D1%8C
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%AB%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%8B%E5%B7%9E
これはモスクワ公イヴァン(1世)・カリタの時代のことでした。
こうしてモスクワ諸公と全ルーシ府主教との、総じて緊密な関係が結ばれだします。
・・・府主教たちは時にモスクワ諸公の政治行為を支援する活動も行いました。」(135~137)
(続く)