太田述正コラム#13618(2023.7.21)
<宮野裕『「ロシア」は、いかにして生まれたか』を読む(その30)>(2023.10.16公開)
[イヴァン4世]
イヴァン4世(Ivan the Terrible)(1530~1584年。モスクワ大公:1533~1547年。ロシア・ツァーリ:1547~1574、1576~1584年)は、「父はヴァシーリー3世、母はエレナ・グリンスカヤ。「エレナは1380年のクリコヴォの戦いでドミートリー・ドンスコイに敗れたジョチ・ウルスの有力者、ママイの子孫と言われており、イヴァン4世はクリコヴォの戦いにおける勝者と敗者双方の血を引くことになる。・・・
⇒モスクワ大公にモンゴルの血が入った者が就き、その者が初代のロシア・ツァーリ国のツァーになったことは、その後のロシア帝国がモンゴル性を帯びたものになる契機となった、と、私は見るに至っている。(太田)
1547年1月16日、・・・イヴァン4世が、史上初めて「ツァーリ」として戴冠した。ツァーリの称号自体はイヴァン3世以来使われていたが、大公としてではなくツァーリとして戴冠するのはこれが初であった。生神女就寝大聖堂での戴冠式には<ウラジーミル2世>モノマフ<(前出)>の帽子が使われ、東ローマ帝国との連続性が強調された。た。・・・
戴冠式の1ヶ月後には、ザハーリン家(後のロマノフ家)のアナスタシア・ロマノヴナを妻に迎えている。・・・
1552年10月に10万を超える軍勢でカザン<・ハン国>を攻めて<カザンを>陥落させた・・・。・・・カザンのハーン、ヤディゲル・マフメトは捕らえられて屈服し、1553年にモスクワで正教に改宗している。・・・
⇒カザン住民が虐殺されていないこと、ハーンが助命され改宗の「名誉」まで与えられていることは、イヴァン4世が、ルーシ諸国に対してとは違って・・後出参照・・、モンゴルに対しては畏敬の念を抱いていたことを示唆している。(太田)
1556年には、カスピ海の西北岸に位置するアストラハン・ハン国を併合。これによりヴォルガ川全域はロシアの支配下に置かれ、ロシアにとってヴォルガ川は「ロシアの母なる川」となる。また併合によってイスラム教徒のタタール人を領内に抱えることになり、イヴァン4世は多民族国家としての第一歩を踏み出したロシアのツァーリとなった。・・・
⇒この時点で、ロシア・ツァーリ国(後のロシア帝国)の臣民もまた、ルーシ人に(広義の)モンゴル人が入り混じる形になったわけだ。(太田)
<次いで、>リヴォニア戦争(1558年 – 1583年)を開始した。・・・
1562年、イヴァン4世は新しい土地法を制定した。それは貴族の権利であった世襲に制限を加える法律であり、貴族の領地を子供以外の兄弟親族が継承する場合はツァーリの許可を必要とし、また売却や交換の一切を禁じるものだった。さらに継承者が寡婦や娘の場合は補償と引き換えに土地は強制的にツァーリの所有となり、これは貴族同士の権限基盤への明確な攻撃であった。・・・
<この>土地法と・・・<リヴォニア戦争での>リトアニア・ポーランド<への>・・・大敗、そしてイヴァン4世の猜疑心は名門貴族たちを絶望させ、この時期からリトアニアに亡命する貴族たちが続発する。・・・
1564年12月3日、イヴァン4世は突然家族を連れてモスクワ郊外・・・に移り、退位を宣言した。直接的な理由は、多くの大貴族がリヴォニア戦争に反対し、クリミア・ハン国征服を要求してツァーリと対立していたためだった。また新土地法にもかかわらず大貴族たちは依然として領地に強い権力基盤を有し、個別には処罰ができても貴族、高位聖職者の勢力はツァーリと拮抗していた。・・・
モスクワ市民は激怒して府主教や貴族の館を取り囲んだ。・・・
結果、・・・退位撤回の条件として「無制限の非常大権」・・・を手に入れたイヴァン4世だった<。>・・・
⇒「民主主義」の恐ろしさ、と言うべきか。(太田)
<その上で、>中央集権化を進めるため、オプリーチニナ制度の導入を宣言した。全国を直轄領(オプリーチニナ)とそれ以外の国土(ゼームシチナ)とに分け、直轄領を自ら選んだ領主オプリーチニキに統治させることにしたのである。オプリーチニナに存在していた土地所有者は代替となる土地をロシア辺境に与えられ、立ち退かなければならなかった。このため、ロシア国内はツァーリ派のオプリーチニキと、旧来の貴族たちのゼームシチナに二分される形になった。オプリーチニナ地域は独自の貴族会議・行政組織・軍隊が設けられ、ゼームシチナとは違う命令系統を持った。・・・
1568年にオスマン帝国のソコルル・メフメト・パシャがクリミア・ハン国を支援して露土戦争(1568年 – 1570年)が勃発。・・・
1570年には、イヴァン4世はノヴゴロドがプスコフとともにリトアニア側につこうとしていると思い込み、市の有力者とその家族全員に対する大虐殺を実行した(ノヴゴロド虐殺)。・・・
その行軍の間にある村々<も>軍の移動を隠匿するために焼かれ、住民は虐殺された。・・・
⇒モンゴルの軛が蘇ったという認識の下、症候群が最も悲惨な形で立ち現れてしまったと言えよう。(太田)
1570年にはオスマン帝国と露土戦争の講和条約を結んだものの、1571年にクリミア・ハン国がリトアニアと同盟を結んで・・・ロシア領に侵攻(ロシア・クリミア戦争)し、5月には首都モスクワを焼き払った(モスクワ大火 (1571年))。・・・
略奪と放火でモスクワ市街は消失し、クリミア・ハン国は市民6万人の殺害を公表したが、同時代の記録には30万人、また<イギリス>人フレッチャーの見聞では80万人もの死亡が記録されている。・・・
⇒日本で言えば、信長の時代というつい最近のことだ。これで、モンゴルの軛症候群の慢性化が決定づけられたと見てよかろう。(太田)
1572年、ロシア軍はモロディの戦いでクリミア・ハン国に勝利した。タタール人の大規模なバルカン・ロシア侵入はこれ以降消滅する。
同年、イヴァン4世は突然オプリーチニナの廃止を宣言し、オプリーチニナの幹部を多数処刑してその存在を抹消した。これにより、イヴァン4世は1565年から掌握している「非常大権」を手放すことになった。・・・
1574年・・・の年末に<は>突然退位を宣言して、チンギス・ハンの子孫の一人シメオン・ベクブラトヴィチにモスクワ大公の座を譲り、自らはモスクワ分領公を称した<が、>・・・1576年の年明けには、再びツァーリとして復位し、シメオンはトヴェリ公となって引退した。・・・
⇒これもモンゴルの軛症候群の一例と見てよさそうだ。
イヴァン4世は、(広義の)モンゴル勢力へのコンプレックスに苛まれ、自分に比してより純粋な「モンゴル人」であるシメオンの方がロシア・ツァーリにふさわしい、と思い込んだ、と。(太田)
<なお、>長い戦争はロシアの国力を大きく疲弊させ、重税や治世末年の飢饉に苦しむ逃亡農民が大量に発生して南部・東部に移り、一部はコサックに転じた。・・・
1577年からストロガノフ家の援助でコサックの首領イェルマークがシビル・ハン国征服に乗り出し、イヴァン4世も1581年にはイェルマークにお墨付きを与えてシベリア征服事業を推進している。1582年にシビル・ハン国征服が完了した。・・・
⇒カザン・ハン国とアストラハン・ハン国の征服の時とは違って、今回は、症候群の発祥的征服だったのではなかろうか。(太田)
少年時代のイヴァン4世はクレムリンの塔から犬や猫を突き落とす猟奇的な趣味があり、また貴族の子弟を引き連れてモスクワ市中で市民に乱暴狼藉を働いていたという伝説がある。・・・
1565年にオプリーチニナを導入して以後、アレクサンドロフ離宮で常にオプリーチニキと起居を共にしていた。
この時期にイヴァン4世のもとを訪れた外国使節らの記録によれば、彼はオプリーチニキと共に修道院を模した共同生活を送り、黒衣をまとって早朝から長時間の祈祷や時課を行い、毎夜のように生神女マリヤのイコンに祈りを捧げ、好んで鐘つき役や聖歌隊長を勤めたという。一方、午後には処刑や拷問が行われ、イヴァン4世自身もそれに加わるのが常だった。彼は拷問の様子を観察するのを好み、犠牲者の血がかかると興奮して叫びを上げたと記されている。・・・
1581年、イヴァン4世は後継者であった次男イヴァンを・・・錫杖で息子を殴打し・・・殺してしまった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B34%E4%B8%96
⇒少年時代の挿話が事実だとすれば、酒鬼薔薇聖斗
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E9%80%A3%E7%B6%9A%E5%85%90%E7%AB%A5%E6%AE%BA%E5%82%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6
がそのままモスクワ大公/ロシア・ツァーリになったようなものだが、恐らくは、そうではなく、イヴァン4世は、大人になってから、モンゴルの軛症候群が発症し、重篤化したのではなかろうか。(太田)
(続く)