太田述正コラム#13620(2023.7.22)
<宮野裕『「ロシア」は、いかにして生まれたか』を読む(その31)>(2023.10.17公開)
[ノヴゴロド虐殺(Massacre of Novgorod)]
「1570年にロシアのノヴゴロド市でツァーリ、イヴァン4世の親衛隊(オプリーチニキ)によって行われた襲撃。・・・
1560年代後半のイヴァン4世は、陰謀と暴力を多用した。イヴァンの精神状態は元々不安定で、リヴォニア戦争によって悪化していた。イヴァンの議会(ボヤール)に対する強い不信感、パラノイア、独占欲が相まって、彼は1565年に直轄領(オプリーチニナ)を創設した。ここではイヴァンは議会の助言なしに不従順な者を処刑したり財産を没収する権限を有していた。彼は、親衛隊を使い、彼が脅威とみなした全ての人を粛正しようとした。
[<現在の>ロシア・プスコフ州ペチョルィ地区の村落<で、>・・・スウェーデン、ポーランド、ドイツとの戦争で度々戦場になり、戦死者の魂が宿ると信じられている「スラブの泉」が湧き出ている<ところの、>]イズボルスク
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BA%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%AF >
の反乱のような事態を避けるために、虐殺の1年前である1569年、ツァーリとなったイヴァンは、ノヴゴロドと近隣の町プスコフから数千人を追放した。彼はまた、彼が脅威と思った人々を処刑し始めた。例えば1568年、モスクワの150人以上のボヤール議員と貴族(場合によってはその家族も共に)は、現実または想像上の陰謀を容疑に殺害された。これらは直轄領設置に抗議した者だけではなかった。
イズボルスクの損害をめぐる不可解な状況(イヴァンが町を復興させたにもかかわらず)は、モスクワの貴族の不安を高まらせ、イヴァンは反乱が拡大していると確信した。彼は従弟のウラジーミル・アンドレエヴィチとノヴゴロド市を最大の脅威とみなし、強硬な手段に出ることを検討した。
イヴァンは、[1553年に・・・イヴァン4世が危篤に陥ると、大貴族の多くはイヴァンの生後1歳の息子ドミトリーに忠誠を誓うことを拒み、代わりに従弟ウラジーミルを後継者に立てようとした<ところの>]ウラジーミル・アンドレエヴィチ
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%A9%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%A8%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81_(%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%84%E3%82%A1%E5%85%AC) >
とその家族のほとんどを処刑した直後に、ノヴゴロドにおける反乱と反逆の脅威を主張して攻撃を開始した。おそらく、多くのウラジーミル支持者がノヴゴロドいたことが関係している。
ノブゴロド正教会の指導者たちはポーランドやリトアニアのキリスト教指導者と親交があったが、イヴァンはこれが裏切り行為であると断罪した。粛清は指導者だけではなく一般市民にも及んだ。町から外に延びる街道は全て封鎖され、逃げる者は捕らえられた。
イヴァンの恐るべき「復讐」でノヴゴロドは荒廃した。虐殺の正確な死者数は不明である<が、>・・・同時代の西洋の情報源は2,700~27,000人が殺害されたとしている<のに対し、>現代の研究者は犠牲者の数を2,500人から12,000人と推定している<ところ、>・・・犠牲者の数は2,000~3,000人<にとどま>ると推定している<学者もいる>。
攻撃の一環として、イヴァンはノヴゴロドの領地を搾取し荒廃させた。生産能力の大部分が失われ、都市の経済が本質的に行き詰まった。これは数年前の不作と結びつき、食糧不足を引き起こした。
イヴァンによる虐殺だけが要因ではないが、虐殺はかつて繁栄したノヴゴロドの「錆びれた地方都市」への没落に大きく影響した。イヴァンの襲撃は市民を恐怖に陥れ、多くは町を去っていった。残った者もオプリーチニキの出征に伴う高い税金の支払いと食糧不足(および貧しい生活条件に付随する疫病)によって困窮した。
<こうして、>かつてイヴァン3世がロシアで権力を獲得するためにモスクワと共に戦った都市であるノヴゴロドは政治的地位を失った。繁栄を謳歌したノヴゴロド公国は紛れもなく過去のものとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%B4%E3%82%B4%E3%83%AD%E3%83%89%E8%99%90%E6%AE%BA
https://en.wikipedia.org/wiki/Massacre_of_Novgorod ←上掲邦語ウィキの典拠たるウィキ
⇒恐怖を植え付けることで政治的目的を達成しようとするところの、ロシアの特異な残虐性(コラム#13541)、の原型を、精神障害者のイヴァン4世は、結果として創造したと言えよう。
スターリンがイヴァン4世を高く評価していたことは、彼の、エイゼンシュテイン監督の映画『イワン雷帝』に対するコメント、からも明らかだ。
(『イワン雷帝』は、「1944年から1946年にかけて制作されたソ連映画。・・・第1部は時の権力者ヨシフ・スターリンから高く評価されたものの、第2部はスターリンを暗に批判した内容であったため上映禁止となり、第3部は完成されなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AF%E3%83%B3%E9%9B%B7%E5%B8%9D_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
「監督とスターリン、その他何人かのソビエト高官が出席した1947年2月の会議の議事録に<よれば、スターリンは、>・・・「ツァーリ・イワンは偉大で賢明な支配者だった。彼の賢明さは、彼が国家的観点に立ち、外国人を国内に入れなかったという点に表れている。…イワン雷帝はとても残忍な人物だった。彼を残忍な人間として描くことはできるが、彼がなぜ残忍でなければならなかったのか説明しなければならない。・・・」<とし、>・・・エイゼンシュテインのイワンは「優柔不断でハムレットを思わせる<が、>・・・もっと決断力のある人物だったはずだ。」と指摘している。会議に同席した有名なソビエト高官のアンドレイ・ジダノフ<は>、監督はツァーリを“ノイローゼ患者”にしてしまった<と断じた>」
https://jp.rbth.com/history/79540-iwan-raitei-eiga
ことが、それを物語っている。
スターリン時代以降のロシア軍に「残虐行為の文化」が深く根付いていることは、(先の大戦時に日本人も満州でソ連軍に体験させられたところ、)<プーチンの下、>「ウクライナであれシリアであれ、自国内のチェチェンでの軍事作戦であれ、ロシアによる軍事介入の歴史には国際人道法をあからさまに無視する傾向がある」<、と、>国際人権団体アムネスティ・インターナショナルのアニエス・カラマール事務局長<が>・・・ロシアによる<今次>ウクライナ侵攻の1カ月足らず前に発表<し>た<ところだ。>」
https://www.cnn.co.jp/world/35185950.html
いや、しかし、「ロシア・・・内戦<(1918年5月~1922年11月)>中赤軍と白軍、両軍の手により一家離散を余儀なくされる民間人も珍しくはなかった。片方の軍が残虐行為を働くと、もう片方もそれに劣らない報復行為に及んだと言われている。<また、>レーニンの下で誕生した秘密警察チェーカーは令状も無く無制限に市民を逮捕できたため、多くの人々が無実の罪を着せられて処刑された。1920年から1921年にかけて発生した旱魃が事態を更に悪化させた。<更に、>レーニンは市場経済廃絶のために飢餓に苦しむ地域に救援の手を差しのべるどころか逆に食料を強制的に徴発し、多くの餓死者を出した。革命勃発からわずか数年の内に、およそ800万人が死亡したと推定されている。ドミトリー・ヴォルコゴーノフは、ロシア内戦におけるボリシェヴィキの残虐行為を「帝政ロシア時代の悲劇すら色あせて見えるほどの非人間的行為」と非難している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E5%86%85%E6%88%A6
と、「残虐行為の文化」が、レーニン時代に遡ることは否定できない。
いや、しかし、「白軍」も、ということになると・・。
そう、私に言わせれば、この「文化」は、16世紀のイヴァン4世と20世紀のレーニンの間の4世紀弱の間、内に向かっては農奴の虐待、外に向ってはシベリア原住民の蹂躙、という、外からは見えにくい伏流水の形で、一貫して生き続けていたのだ。↓
The Long History of Russian Brutality・・・
He is also instructive on the czarist conquest of the Buryat and other peoples across
Siberia, a 200-year process beginning around 1580, pointing out that Russian history books have always portrayed it—wrongly—as less brutal and genocidal than the conquest of the American West.
< 参考:Conquering Siberia: The Case for Genocide Recognition
https://www.genocidewatchblog.com/post/conquering-siberia-the-case-for-genocide-recognition >
<Further、a> less democratic regime than czarist Russia would be hard to imagine. Starting in the 17th century, serfdom enslaved a high proportion of the country’s citizens—a system maintained by whips, chains, the threat of separating families and exiling rebels to Siberia, and the massacre of tens of thousands of serfs who staged hundreds of revolts over the years. In the 18th century, the Enlightenment passed the country by, and in the early 20th, Russia was the last absolute monarchy in Europe. (A wildly unrepresentative parliament installed after a 1905 uprising was dismissed by the czar several times.)
As in all despotisms, power rested upon violence.
In the eyes of the regime, Russian citizens were either loyal subjects who knelt to the ground when the czar passed or deadly enemies most likely bent on assassination. The idea of a space in between barely existed.
Over the centuries, five czars were indeed stabbed, strangled, shot, or otherwise assassinated, as were several grand dukes and other high officials<.>・・・
https://journalism.berkeley.edu/wp-content/uploads/2022/10/In-the-Ukraine-War-Russias-History-Casts-a-Long-Shadow.pdf
(続く)