太田述正コラム#13622(2023.7.23)
<宮野裕『「ロシア」は、いかにして生まれたか』を読む(その32)>(2023.10.18公開)


[ボリス・ゴドゥノフ]

 ボリス・フョードロヴィチ・ゴドゥノフ(Boris Fyodorovich Godunov。1551?~1605年。ロシア・ツァーリ:1598~1605年)は、「下級貴族の出身で、先祖は14世紀にモスクワ大公国に臣従したタタールといわれる。
 ボリスは若い頃にオプリーチニキ隊に所属し、1570年あるいは1571年にイヴァン4世の寵臣マリュータ・スクラートフの娘マリヤと結婚したことにより、権勢を得る道を開いた。
 ボリスは有能な顧問官としてイヴァン4世の信任厚く、1580年には大貴族に叙せられたうえ、妹のイリナが皇子フョードルの妃となる栄誉に恵まれた。1584年にイヴァン4世が死に、義弟フョードルがフョードル1世として即位すると、その摂政団の一員となる。
 さらに1588年までに大貴族の・・・ライバルを一掃し、以後は単独で国政を指導することとなった。・・・
 摂政<時代、>・・・イェルマークの率いるコサック傭兵軍団は、1598年にはシビル・ハン国を滅ぼしてモスクワ国家の版図を拡げた。また、1589年にモスクワ総主教座が置かれ、正教会内でのモスクワの地位を高めた。・・・
 1598年1月、男子のないフョードル1世が崩じてリューリク朝が絶えると、摂政で義兄のボリスが全国会議でツァーリに選出された。また、ボリスが貴族会議による権限制約を拒むと、リューリクの流れをくまないボリスは帝位を受ける出自でない、と貴族から反発が挙がった。そのため、ボリスはフョードル・ロマノフら主だった有力貴族を失脚させ、反対派を力で抑え込んだ。
 おまけにボリスの治世には災害が頻発し、凶作や飢餓、疫病は各地で猛威をふるうなど不運だった(ロシア大飢饉<(注58)>)。

 (注58)’The Russian famine of 1601–1603, Russia’s worst famine in terms of proportional effect on the population, killed perhaps two million people: about 30% of the Russian people. ・・・
 The famine resulted from a volcanic winter, a series of worldwide record cold winters and crop disruption, which geologists in 2008 linked to the 1600 volcanic eruption of Huaynaputina in Peru.・・・
 Boris Godunov’s government attempted unsuccessfully to help the people by selling grain from state granaries at half price and later by giving away grain and money to the poor in the major cities until the treasury was depleted.’
https://en.wikipedia.org/wiki/Russian_famine_of_1601%E2%80%931603

 ボリスは対策を立てたものの、農民や逃亡奴隷は暴動をおこし、国内は機能停止状態に追い込まれ、政府の対応策は全く意味をなさなかった(動乱時代<(注59)>・・下掲のもう一つの囲み記事参照・・)。・・・

 (注59)Time of Troubles。「1598年のリューリク朝フョードル1世の死去から1613年のロマノフ朝創設までの時代を指す。・・・1601年から1603年にかけて、ロシアは、当時の人口の3分の1に相当する200万人が死ぬというロシア大飢饉に見舞われた。また、1610年から1613年にかけてはツァーリ不在の空位時期に陥った。さらに1605年から1618年にかけてのロシア・ポーランド戦争で、ロシアはポーランド・リトアニア共和国に占領され、民衆の蜂起が起こり、皇位簒奪者、皇位僭称者が次々現れた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%95%E4%B9%B1%E6%99%82%E4%BB%A3

 ボリスは1605年4月に急死し、息子のフョードルがフョードル2世としてツァーリに即位した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%8E%E3%83%95

⇒イヴァン4世、ボリス・ゴドノフ、フョードル2世、と、モンゴルの血の入ったツァーリが続いたわけだ。(太田)

——————————————————————————————[動乱時代]

「1603年、偽ドミトリー1世、つまり一連のドミトリー僭称者の最初の人物が、自分こそがロシア皇帝位の正当な継承者であるとしてポーランド・リトアニア共和国に現れた。ドミトリーは、兄である先帝がまだ亡くなる前に刃物による不審死を遂げており、それはゴドゥノフの差し金による暗殺だと思われていた。
 しかし、ドミトリーに成り済ました謎の人物が現れると、多くの人々が彼を皇帝位の正当な継承者と見なすようになった。偽ドミトリーは、ロシア国内でも、また、国外でも特にポーランドや教皇領では支持を集めた。ポーランド・リトアニア共和国の諸勢力は、彼をロシアへの影響力を拡大する道具とするか、少なくとも、彼を支持することで何らかの見返りを得ようとしていた。教皇は、東方正教会のロシアに対して、ローマ・カトリックの勢力を拡大する機会と考えていた。
 同年、数ヶ月後、ポーランド勢は4000人という小兵力で国境を越えた。軍勢には、ポーランド人、リトアニア人、ロシア人亡命者、ドイツ人傭兵に加え、ドニエプル川やドン川流域のコサックが加わっていたが、これは、ポーランド・リトアニア共和国のロシアへの介入、一連の偽ドミトリーをめぐる戦乱のはじまりであった。この時点でポーランド・リトアニア共和国は、国王ジグムント3世が介入に反対していたこともあり、ロシアに正式な宣戦布告はしていなかったが、一部の有力貴族(マグナート)が偽ドミトリーを支持し、後々の見返りを期待して兵力や資金を提供していた。・・・
 1605年にボリス・ゴドゥノフが亡くなると、モスクワへの入城に成功した。ボリスの息子でツァーリとなっていたフョードル2世は、偽ドミトリーのモスクワ入城時に母とともに殺害された。・・・
 偽ドミトリーの治世は短かった。1年も経たないうちに、リューリク朝の血を引く公(クニャージ)のひとりであった野心家のヴァシーリー・シュイスキーが陰謀を企て<、>シュイスキーの手勢は、・・・偽ドミトリー1世を殺害し、その支持者も多数虐殺した。 シュイスキーとその手勢は、このときおよそ2000人のポーランド人を殺害したと考えられている。・・・

⇒イヴァン4世が乗り移ったかのような残虐さだ。(太田)

 実権を掌握したシュイスキーはリューリクの男系子孫であることを理由に、自分の支持者を集めた議会で皇帝に選出され、ヴァシーリー4世となった。・・・
 程なくして新たな僭称者である偽ドミトリー2世が現れ、・・・この僭称者もポーランド・リトアニア共和国のマグナートたちから保護と支持を得・・・た。これに対抗してシュイスキーがスウェーデンと同盟を結び、・・・スウェーデン軍がロシア国内に介入した(デ・ラ・ガーディエ戦役)。ポーランド・リトアニア共和国国王ジグムント3世は、ロシアとスウェーデンの同盟関係を危機と見て、ロシアへの介入を決意し、ロシア・ポーランド戦争を始めた。・・・
 ポーランド・リトアニア軍は、ロシア国境を越え、スモレンスクを包囲し、20ヶ月に及ぶ攻城戦を展開した(Siege of Smolensk (1609–1611))。ロシア=スウェーデン連合軍がクルシノの戦いに敗れると、同年7月にヴァシーリー4世は退位を余儀なくされた。
 その後、偽ドミトリー2世が皇帝の位に就く前に、ポーランド軍の司令官・・・は、国王ジグムント3世の長男ヴワディスワフのロシア皇帝擁立に動いた。モスクワの一部の人々は、ロシア正教会の地位の維持と、一定の特権の付与を条件に、この構想を支持した。そうした了解の上で、ポーランド軍はモスクワに入城し、クレムリンを占拠した。
 ポーランド王はこの妥協策に反対し、自ら皇帝となりロシアをローマ・カトリックに改宗させようと決意する。これには反対も多く、王の計画はロシアにおける反カトリック主義と反ポーランド感情を引き起こした。バルト海沿岸のイングリア地方で、やがてスウェーデン・ポーランド戦争に展開する実質的戦争状態にあったスウェーデンも、ロシアに宣戦布告し(イングリア戦争)、新たな偽ドミトリーをイングリア・・・で擁立した。スウェーデン王子であるカール・フィリップ(1611年に即位したスウェーデン王グスタフ・アドルフの弟)もノヴゴロド市民によってツァーリに擁立されたが、偽ドミトリーたちやポーランド王太子ヴワディスワフほどの対抗馬にはなれなかった。
 ロシアは国家機能を喪失していた。皇帝は空位となり、大貴族は互いに対立していた。ロシア正教会の総主教ゲルモゲーンは投獄され、カトリックであるポーランド軍がクレムリンやスモレンスクを占領し、プロテスタントであるスウェーデン軍がノヴゴロドを占領していた。タタールの侵略が続いて、ロシアの南部境界地域は無人化し、荒廃しており、無数の無法者の群れが全土で跋扈していた。

⇒ロシア・ツァーリ国は地獄のごとき様相を呈していたわけだ。(太田)

 一連の戦争や反乱によって、何万人もの人が死んだ。1611年3月17日から19日にかけて、ポーランド軍とドイツ人傭兵はモスクワの反乱を名目に鎮圧し、 住民7000人を虐殺して町に火を放った。9月22日にはポーランド・リトアニア軍がヴォログダの住民と聖職者を皆殺しにした。この他にも数多くの都市が破壊され、ロシアは更に弱体化をした。

⇒残虐さはその被害者側による残虐さがエスカレートした形での報復をもたらす、ということだ。(太田)

 ロシアの民衆は、ニジニ・ノヴゴロドの商人クジマ・ミーニンと、ドミトリー・ポジャルスキー公に率いられて立ち上がった。・・・11月1日・・・のモスクワの戦いの後、侵略者側はクレムリンに撤退し、・・・11月3 – 6日・・・には、近くにいたポーランド軍も撤退を余儀なくされ、クレムリンに残った軍勢はポジャルスキーに降伏した。ロシアでは現在でも、11月4日を国民団結の日として祝日としている。
 1613年2月11日・・・、ロマノフ家出身のロストフ府主教フィラレート(後のモスクワ総主教)の息子、ミハイル・ロマノフが、ゼムスキー・ソボル(全国会議)によって皇帝に選ばれた。・・・権力を掌握した新しいツァーリは、偽ドミトリー2世の3歳の息子を縛り首にし、・・・<その母で偽ドミトリー1世の皇妃にして偽ドミトリー2世と恐らく密かに結婚していた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%83%8B%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%95%E3%83%B4%E3%83%8A >マリナ・ムニシュフヴナを窒息死させた。
 スウェーデンとのイングリア戦争は、1617年のストルボヴァの和約まで続いた。ロシア・ポーランド戦争は、1619年のデウリノの和約まで断続的に続いた。こうした条約によって平和はもたらされたが、ロシアと接する両国に対し、ロシアは領土面の譲歩を強いられた。もっとも、その後の歴史の中で、ロシアはこの頃に失った領土のほとんどを回復した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%95%E4%B9%B1%E6%99%82%E4%BB%A3 前掲

⇒しかし、第二次世界大戦後の冷戦に敗れたロシア(ソ連)は、この「ほとんどを回復した」領土を全て失い、現在に至っているわけだ。

 まさに、因果は巡る。(太田)

(続く)