太田述正コラム#13626(2023.7.25)
<宮野裕『「ロシア」は、いかにして生まれたか』を読む(その34)>(2023.10.20公開)
「・・・イヴァン3世の治世である1470年代になると、・・・1471年<に>・・・ノヴゴロドの親モスクワ派がイヴァン3世を称える言葉として・・・キエフ時代のルーシ諸公・・・との血脈の連続性を示す・・・言葉<が>登場します。
またイヴァンの外交使節もノヴゴロドに対し、<同様の>・・・イヴァンの言葉を伝えています。・・・
引き続いて、・・・1493年1月、ロシアの使節の文書において、大公イヴァンは「全ルーシの君主」を名乗りました。
そして・・・リトアニアとの戦争<の>・・・和平交渉において・・・、リトアニアはこの称号に反発したものの認めることになりました。
実のところ、半世紀前の1449年のリトアニア・モスクワ条約においては、リトアニア大公こそ「ルーシの」という言葉が付され、モスクワ川は単に「モスクワの」君主と呼ばれていました。
そのことに鑑みるならば隔世の感があると言えるでしょう。
さらに1503年から04年に戦争の仲裁に入ったハンガリー王の使節にも同様のことが伝えられています。・・・
イヴァン3世は・・・リトアニア大公・・・アレクサンドラスにも同様のことを述べています。・・・
このように、1470年代頃から、教会の後を追う形で世俗においてもキエフとの歴史的な結びつきが強調され、それが具体的にリトアニア支配下の、かつてのルーシ公国領の奪回の根拠として使われたのです。
具体的目標としてキエフとスモレンスクが挙がっています。
そして同時期に大公の称号が「全ルーシの君主」を名乗る場合が増えてきます。
こうした動きの背後に・・・私としては、精緻な計画があったとは考えにくいように思います。・・・
中世という時代、国家の代表者である君主の立場、そして支配権は外交文書における称号に明確に現れる<ところ、>・・・その後も大公の称号<が>やや揺れている・・・ことは、<そんな>ものはなかったことを意味しているように思われ<るからで>す。
その後、ロシアは「全ルーシの地の相続」に成功し・・・たのでしょうか。
実は、キエフがロシア領となるのは1世紀以上先の1654年のことでした。
ロシアにとって、征服計画が遅れた大きな理由は、16世紀末のリューリク朝の断絶・・イヴァン4世(雷帝)の子フョードル<が>最後・・でした。・・・
ちなみに、現在のドンバスなどのウクライナ最東部やオデサなどの南部には、それぞれ16世紀から17世紀、18世紀末にロシアが領土を広げることになりますが、これらの地域は「全ルーシの地」の外部でしたから、これらの地への侵攻はもはやイヴァン3世時代の「相続」の考え方では説明ができないところです。
・・・イヴァン3世<によるところの、>現在のウクライナ北東地域<へのロシアの>領土<の>拡大・・・は、大貴族層やそれに準ずる人々にとっては君主との関係を変えるかどうかを迫られたという点で大問題であった一方で、中流下層の特に都市民にとっては、侵攻による被害こそが最も大きな関心事でした。
イヴァンの侵攻の大義が彼らの心を打ち、共感を呼び、ロシア軍を受け入れたという、ロシア側の宣伝に則った見方はおおむね誤りであったようです。
この点は、現在のウクライナ侵攻でも似ている部分がありそうです。」(142~147、150)
⇒私も、イヴァン3世のロシア・ウクライナ一体論乗りではありません。
下掲書評参照。↓
”・・・the claim that Russia and Ukraine were co-founded・・・was an invention by a 17th-century propagandist and Prussian monk, Innokenty Gizel<(注66)>, who was more politician than scholar.
(注66)1600?~1683年。Innokenty(Innocent) Gizel・・・made a substantial contribution to Ukrainian culture.
<He> was a rector of the Kyivan Theological School. In 1656, he was appointed archmandrite of the Kyiv Pechersk Lavra. Innokentiy Gizel is known to have supported the unification of Ukraine and autonomy of the Kyiv clergy, simultaneously. ‘
https://en.wikipedia.org/wiki/Innocent_(Giesel)
He wrote a “tendentious” book to boost Muscovy’s support for the Orthodox religion in Kyiv, and to diminish the influence of Catholic Poland.
It became the standard text for Russian thinkers for the next 300 years.
https://www.theguardian.com/books/2023/jul/09/war-and-punishment-the-story-of-russian-oppression-and-ukrainian-resistance-by-mikhail-zygar-review
Mikhail Zygar(注67)の本の書評が紹介しているZygarによるイノセント評とイノセントの英語ウィキペディアの記述との間にズレがありますが、Zygarの方を信用することにしたいところです。
(注67)1981年~。’Russian born journalist, writer and filmmaker<.>・・・On February 24, 2022, the day Russia’s invasion of Ukraine began, Zygar launched an online petition on Facebook condemning the war. On the third day of the war, he left Russia and lives in Berlin.
Zygar writes a weekly column on Russia and the war for Der Spiegel, and a column for The New York Times.’
https://en.wikipedia.org/wiki/Mikhail_Zygar
<He was> educated at・・・Moscow State Institute of International Relations< & >Cairo University
https://www.wikidata.org/wiki/Q4194814
また、下掲も参照。↓
”It was a similar story with Crimea. Once home to Greeks and Scythians, the peninsula was a part of Genghis Khan’s all-powerful empire, to which Moscow tsars paid tribute. It became a Russian possession after Catherine the Great defeated the Ottoman Turks and repressed the local Cossacks and Crimean Tatars. She abolished the Zaporozhian Host – a democratic forerunner of the Ukrainian state – and gave its land to her favourite courtiers.
It wasn’t until 1898 that the historian Mykhailo Hrushevsky<(注68)>, head of Ukraine’s first government, pointed out that Russia’s version of the past was bunk, and that Kyivan Rus led to Ukraine, with its democratic traditions.
(注68)1866~1934年。President of the Central Council of Ukraine:1917~1918年。’ born on・・・to a Ukrainian noble family in Kholm (Chełm), in Congress Poland, an autonomous polity in the Russian Empire. Hrushevsky grew up in <ジョージアの>Tiflis, where he attended a local school. ・・・Alma mater<:>Saint Volodymyr University, Kyiv
https://en.wikipedia.org/wiki/Mykhailo_Hrushevsky
The Moscow princes submitted to the Mongols. Their Ukrainian counterparts in western Galicia – long a part of the Polish-Lithuanian Commonwealth – did not.
The pattern of anti-Ukrainian persecution repeats from one era to the next・・・. The imperial authorities locked up Taras Shevchenko, Ukraine’s national bard, for writing “outrageous” poems in the Ukrainian language. In the 1930s Stalin purged dozens of prominent Ukrainian writers and cultural figures, a group known as the “Executed Renaissance”. In 1979 Moscow tried Vasyl Stus, a dissident Ukrainian poet.”(上掲)
すなわち、私は、Zygarの主張、や、それと同趣旨のHrushevskyの主張、乗りです。
私(わたし)的に言えば、属国人根性、分裂への恐怖/強権的指導者礼賛、領土・緩衝地帯拡大衝動、残虐行為の文化、からなるモンゴルの軛症候群患者のロシア、と、この症候群とは概ね無縁のウクライナ、とは、水と油である、と。
問題は、ウクライナ側に、共通の積極的属性がなかったことだったわけですが、それが、2014年から始まったロシアのウクライナ侵略のお陰で、ウクライナ人の大部分が、ロシアの軛症候群的なものを発症した・・換言すれば、私の言う横井小楠コンセンサス信奉者的になった・・ことによって、抜本的に良い方へと変ったのではないでしょうか。(太田)
(完)