太田述正コラム#13628(2023.7.26)
<松下憲一『中華を生んだ遊牧民–鮮卑拓跋の歴史』を読む(その1)>(2023.10.21公開)
1 始めに
次のオフ会「講演」原稿の内容と関係した表記をお送りします。
なお、松下憲一(1971年~)は、「北海道大学大学院文学研究科博士後期課程東洋史学専攻修了。博士(文学)。現在、愛知学院大学文学部教授」
https://www.hmv.co.jp/artist_%E6%9D%BE%E4%B8%8B%E6%86%B2%E4%B8%80_200000000402452/biography/
という人物です。
2 『中華を生んだ遊牧民–鮮卑拓跋の歴史』を読む
「・・・中国では殷周(前16世紀~前8世紀)のころすでに遊牧民がいた。
それら遊牧民を殷周の人たちは、羌<(注1)>(きょう)・戎<(注2)>(じゅう)・胡<(注3)>と呼んで蔑み、自分たちの住む世界を中国=中華とした。
(注1)「古代より<支那>西北部に住んでいる民族。・・・現在も<支那>の少数民族(チャン族)として存在する。・・・紀元前5世紀に戎族出身の無弋爰剣(むよくえんけん)という者が現れ、彼の一族に率いられた者たちが羌族を形成していくこととなる。漢代になると、北の匈奴が強盛であったため、初めのうちは匈奴に附いていたものの、前漢の武帝により匈奴が駆逐されると、代わって漢に附くようになり、漢の護羌校尉のもとで生活することとなる。しかし、羌族はたびたび漢に背いて叛乱を起こしたため、その都度漢によって討伐された。後漢末に黄巾の乱が起きると(184年)羌族は再び勢いを盛り返し、・・・漢民族の軍閥と組んで独自の勢力を築いた。三国時代(220年 – 280年)においては、魏と蜀漢の国境地帯において勢力を保ち、その趨勢に応じて魏や蜀に附いて戦った。五胡十六国時代に入ると、南安赤亭羌の酋長である姚萇が前秦から独立して後秦を建国した(384年)。後秦は417年に東晋の劉裕(後の南朝宋の武帝)によって滅ぼされる。唐代から北宋代には、羌族の有力部族であるタングート(モンゴル化したテュルク民族とする説もあり)が強勢になり、やがて宋を圧迫して多額の歳幣を取る事に成功した。その後李元昊が西夏を建てて皇帝となる。北宋が金に滅ぼされると服属するが、チンギス・ハーンの勃興時に滅ぼされた。西夏滅亡後は表立った主導的な政治活動を見せることはなく、現在に至っている。・・・
殷と羌の関係を示す甲骨文字の資料が多数発掘されており、それらによると、「羌」は殷にとって中原における最大の軍事目標であり、また、殷による膨大な数の人間の生贄も「羌」と呼ばれている。そこで、「羌」は固有名詞で殷に敵対する特定の集団であるという説と、「羌」は一般名詞に近く殷に敵対するある種の諸集団をまとめて「羌」と呼んでいたという説の2つがある。
羌はその字形に「羊」の字を含むことから、牧羊する遊牧民族という説が古くからあるが、殷墟の生贄の骨の分析結果からは、遊牧民族ではなく農耕民族であることを示唆するデータが得られている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8C
(注2)「<支那>の五帝時代から戦国時代にかけて、<支那>の西および北に住んでいた遊牧民族。<支那>の歴代王朝領土にたびたび侵入しては略奪をおこなった。大別して西の戎を西戎といい、北の戎を北戎という。また、戎が滅んだ後世になっても、<支那>では蔑称として西戎や戎狄の語を用いた。「戎」とは、古代<支那>の兵器を指し、「槍術が上手な民族」の意とされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8E
(注3)「もともとの意味は、「あごひげ」が長い人である。・・・
「胡」は戦国時代、内モンゴルの塞外民族を指していたが、秦漢朝では特に匈奴を指すことが多くなった。唐代にいたり、シルクロードの往来が活発になると、「胡」は特に「西胡」ともいわれ、西方のペルシャ系民族(ソグド人)を指すようになった。彼らがトルキスタンから唐土に運んだ文物、風俗は「胡風趣味」として愛好され、胡服、胡笛、胡舞などが中国で一文化として根付いていった。 東胡<は、>・・・春秋時代から漢代にかけ内モンゴル東部にいた遊牧狩猟民族で、胡(匈奴)の東方に住んでいたことからの呼称という。モンゴル(またはテュルク)とツングースの雑種であり[要出典]、秦代になると一時は匈奴を圧倒したが、冒頓単于<(ぼくとつぜんう)>により壊滅させられた。烏桓や鮮卑はその後裔といわれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%A1
⇒「注1」のウィキペディア執筆陣は、2017年の論文
https://www.academia.edu/34810325/Social_dynamics_in_Early_Bronze_Age_China_A_Multi_Isotope_Approach
に依拠して、商(殷)時代の羌・戎・胡を農耕民族である、としているところ、この本は2023年刊であり、著者は、少なくとも、彼らを遊牧民であると断定すべきではありませんでした。(太田)
これを華夷思想<(注4)>という。
(注4)「華夏(<支那>)は世界のうちでもっとも文化の卓越した中央の地であるとし,周辺の諸国を文化のおくれた低劣の地と蔑視し,夷狄(いてき)と称してこれを差別する立場。華と夷を分かつ基準を,根源的な血液の違い,人と禽獣の差とする考えもないではないが,多くは道義性の有無,習俗や制度の相違,いわば文化的な優劣におく。だから夷狄も文化が向上すれば,差別を解消して中国に迎え入れ,世界国家の理想が実現するという。しかし実際には,<支那>文化の優越性への自負があまりに強烈なためか,夷狄の進化をかたくなに拒み,容易に受け入れない。」
https://kotobank.jp/word/%E8%8F%AF%E5%A4%B7%E6%80%9D%E6%83%B3-1152950
しかしこれらの遊牧民はモンゴル高原にいたものを言ったのではない。
羌・戎・胡は、殷周の人々が住む城壁に囲まれた都市と都市の間に住んでいた。
また、彼らは騎馬遊牧民ではなかった。・・・
馬に騎乗するためには、馬をコントロールする銜(はみ)<(注5)>(馬の口に入れ手綱をつなぐ道具)と手綱が必要である。」(17)
(注5)「馬は、前歯(切歯。牡馬は犬歯も)と奥歯(臼歯)の間に「歯槽間縁(しそうかんえん)」と呼ばれる歯の生えない部分を持つ。頭絡の頬革の長さを調節し、この歯槽間縁に収まるように正しく支持されていれば、馬は口中のハミを歯で噛むことはない。歯槽間縁の発見とハミの発明が、馬を乗用動物の筆頭とした要因である。・・・
カザフスタンのボタイ遺跡から出土した紀元前3500年頃の馬歯にはハミ痕が残り、この頃には馬具を用いた馬の家畜化が行われていたと考えられている。なお、ウマの家畜化自体はこれを遡る紀元前4500年頃とする説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%9F_(%E9%A6%AC%E5%85%B7)
(続く)