太田述正コラム#2454(2008.3.29)
<駄作史書の効用(その1)>(2008.10.13公開)
1 始めに
 駄作である史書など本来このコラムでとりあげるべきではありますまい。
 しかし、ニューヨークタイムスが、これは駄作だという書評を載せた後、再度書評でとりあげて今度は結構誉めた、となれば注目せざるをえません。
 現時点では、ニューヨークタイムス以外には英エコノミスト誌やテレグラフ紙くらいしか歴とした媒体はとりあげていませんが、結構米国のミーちゃんハーちゃんのブログで話題になっており、なにゆえニューヨークタイムスが二度もとりあげたのか、分かるような気がします。
 滅法中身が面白いのだけれど、ミーちゃんハーちゃんでも、アラが目立って一言モノを申したくなる代物だ、ということでしょう。
 (以下、特に断っていない限り、
http://www.nytimes.com/2008/03/23/books/review/Chua-t.html?_r=1&oref=slogin&pagewanted=print  
(最初の書評。3月22日アクセス)、
http://www.nytimes.com/2008/03/26/books/26grimes.html  
(再度の書評。3月27日アクセス)、
http://www.electronic-economist.com/books/displaystory.cfm?story_id=10875595
(3月28日アクセス(以下同じ))、
http://www.telegraph.co.uk/arts/main.jhtml?xml=/arts/2008/03/22/bopag122.xml
http://www.literaryreview.co.uk/gray_03_08.html
http://www2.nysun.com/pf.php?id=73176&v=2061966021
http://www.generousorthodoxy.org/ruminations/2008/03/east-vs-west-two-competing-views-of.htm
による。)
 その史書とは、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)の政治学及び歴史学教授のパグデン(Anthony Pagden)による、’WORLDS AT WAR;The 2,500-Year Struggle Between East and West’です。
 彼は学士号、修士号、及び博士号をオックスフォード大で取得しているので、イギリス人ではないかと思われるのですが、同大学のフェローやケンブリッジ大学の講師兼フェローを経て、米ジョンズホプキンス大学の教授になり、2002年秋からUCLA勤めです(
http://www.polisci.ucla.edu/people/faculty-pages/pagden-anthony
。3月28日アクセス)。
 若干フライング気味のことを申し上げますが、このイギリスから逃げ出したような経歴を見ると、パグデンは、イギリス人の大衆的偏見を持ったまま人となったB級の歴史学者であるような気がします。しかし、そんな人物が書いた史書であるとすれば、俎上に乗せることも面白かろうと考えた次第です。
2 本の中身の概要の上澄み
 (1)イスラム以前
   ア ヘロドトス
 
 ホメロス(Homer。紀元前8世紀?)はギリシャ人とトロイ人が同じ神々を信仰し同じ価値観を持っているものとして描いているが、ヘロドトス(Herodotus。BC484?~BC 425年?)は、トロイ戦争を、ヘラス(後に欧州)誕生の契機として、そしてそのアジアに対する勝利として見た。
 ヘロドトスは、ペルシャ戦争(BC492~BC449年)を、人間とはなんぞや、そして人間らしく生きるとはいかなることかをめぐる二つの世界観の間の闘争と見、かかる史観をトロイ戦争にも遡って投影したのだ。
 彼は、ギリシャ人は、「人間性に関する個人主義的見解」を抱いていたのに対し、ペルシャ人は戦場においては勇気と凶暴さを発揮しつつも社会生活においては、「臆病、卑屈、恭順、偏狭にして個人的発意に乏しく、人間集団というより群れ」であると記した。
 このヘロドトスの史観は、古典ギリシャ人の間で共有されることになる。
  イ アレキサンダー大王
 このヘロドトス史観に基づき、アレキサンダー大王(BC336~BC323年)は、当時知られていた全世界を文明化するとの使命感をひっさげて世界征服に乗り出した。
 これを引き継いだのがローマだ。
 キケロ(Cicero。BC106~BC43年)は、ローマは「唯一の真理を賢明にも把握」していると述べている。
 (2)イスラム以後
  ア メフメット2世
 東西を対立的に見るヘロドトス史観は、イスラム勢力にも受け継がれた。
 彼らは、「唯一の真理を賢明にも把握」しているのは自分達の方だと考えた。
 オスマントルコのスルタン、メフメット2世(Mehmed 2。1432~81年)は、1453年にコンスタンティノープルを陥落させた時から10年後、彼はトロイの遺跡を訪問し、アガメムノンやアキレス等が上陸したと伝えられる海岸で、トロイの復讐はついになされたと宣言した。そして彼は、ギリシャ人の子孫達は、「アジア人に対して当時やその後の時代に彼らが行った不正義に対し、かくも長き月日の後、正当な報い」を強制的に受けることになったと続けた。
 トルコ人がヘクトル(Hector)やプリアム(Priam)等トロイ人の承継者であるなど変な話だが、15世紀にはそうではなかったということだ。
  イ ナポレオン
 ナポレオン(1769~1821年)は1798年に3万人の兵士を乗せた艦隊を引き連れてエジプト遠征を行い、アレキサンドリアに上陸した。
 これは単なる侵略ではなかった。
 この時、ナポレオンは経済学者達、詩人達、建築家達、天文学者達、そして気球乗り、パリ・オペラ座のバリトン歌手も同道させていた。モンテスキュー、ルソー、モンテーニュ、ヴォルテール等の西側世界の古典たる書籍数千冊も持って行った。
 ナポレオンは、人権と人間の尊厳の時代が到来したとし、革命フランスの諸原理がコーランの教えと合致していると喧伝した。
 しかし、うまくいかなかった。
 カイロの(オスマン)帝国評議会(Imperial Council=Divan)は、「コーランを敬うというのならそれを称えよ。そして称えると言うことは、それに書かれていることを信じること以外にない」と記した返事を寄越しただけだった。
 フランス人の方はフランス人の方で、エジプト人の怠惰さと未開ぶりに目を丸くした。 彼らは西側世界に、東方イスラム世界は、「単純で野蛮な宗教によって制約され、自分達の半分の人間性を否定し、そのことにより、進歩と啓蒙の可能性を自ら閉ざしているところの専制的無気力(lethargy)のうちに腐っている地」であるとの印象を持ち帰った。
(続く)