太田述正コラム#13640(2023.8.1)
<松下憲一『中華を生んだ遊牧民–鮮卑拓跋の歴史』を読む(その7)>(2023.10.27公開)
「・・・五胡諸国では、支配部族と服属部族とをともに首都近郊に集めて、支配者集団を形成することはなかった。
対して北魏では、支配部族の拓跋部と、拓跋部に服属した部族を首都平城<(注21)>の周囲の畿内(雲代地区)にあつめ、彼らを支配集団の代人集団に作り変えた。
(注21)「<現在は>中華人民共和国内モンゴル自治区フフホト市に位置する県<である>・・・ホリンゴル<に>・・・386年に<代の>・・・都が置かれ盛楽と称されていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E7%9C%8C
「拓跋珪は・・・398年・・・7月に平城(現在の山西省大同市平城区)に遷都し、12月に<北魏の>皇帝として即位し道武帝となった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%AD%8F 前掲
「<北魏の>孝文帝<は、>・・・493年には平城から洛陽への遷都を強行した。この時に孝文帝は反対のあることを予期して、南朝斉への遠征であるとして洛陽に至った。そこで諸将から南征を諌められるが、それに従う代わりの交換条件と言う名目を持って遷都を実行した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E6%96%87%E5%B8%9D
「周<の>平王の時代、戦乱により荒廃した渭水流域の宗周鎬京城(後世の長安)より都が移された。こうした経緯から、<支那>古代の王朝では渭水流域の軍事力と結びついた「長安」と華北平原の経済力と結びついた「洛陽」が対になって首都機能を担う形が出来上がっていった。その後、後漢・三国魏・西晋・北魏・隋・後唐などにおいて「洛陽」に都が置かれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9B%E9%99%BD%E5%B8%82
⇒「馮太后(ふうたいごう<。442~490年>)<(コラム#13483)は、>・・・14歳の時、太武帝の孫で第5代皇帝である文成帝の貴人となった。後に皇后となるが、文成帝は・・・465年・・・に若くして崩御し、彼女は悲しみのあまりに文成帝の遺体を火葬する際に火中に身投げしたが救出されて一命を取り止めた。
文成帝の跡を継いだ息子の献文帝の代には、義母として皇太后として補佐にあたった。しかし献文帝が成長するにつれて対立が生じ、皇太后は献文帝を脅迫して・・・471年・・・には息子の拓跋宏(孝文帝)に譲位させた。しかし献文帝も報復として太皇太后が寵愛していた家臣李奕を殺害したため、・・・476年・・・に献文帝を毒殺し、北魏の政権を完全に掌握した。太皇太后は抜群の政治手腕を見せた。・・・484年・・・、同姓不婚・俸禄制・均田制・三長制・租調制など様々な政治改革を行ない、北魏の全盛期をもたらした。・・・ 彼女の施策は孝文帝により受け継がれ、北魏は全盛期を迎えることになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%88%90%E6%96%87%E6%98%8E%E7%9A%87%E5%90%8E
ところ、天武天皇も、また、とりわけ、その皇后で皇位を継いだ、持統天皇(注22)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%81%E7%B5%B1%E5%A4%A9%E7%9A%87
も、北魏が平城を都としていた時の馮太后の「治世」における諸施策を理想視しており、そのことが、この両者の子で持統の次に皇位を継いだ文武天皇の時に、彼女の遺志を受けて北魏の平城から名前をとった平城京遷都審議を開始し、その次の天皇の元明天皇・・やはり女帝!・・が708年に遷都の詔を出し、710年に遷都された、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%9F%8E%E4%BA%AC
というのが私の見立てです。
(注22)「他の女帝についてしばしば政権担当者が別に想定されるのと異なり、持統天皇の治世の政策は持統天皇が推進した政策と理解される。持統天皇が飾り物でない実質的な、有能な統治者であったことは、諸学者の一致するところである。『日本書紀』には天武天皇を補佐して天下を定め、様々に政治について助言したとあり、『続日本紀』には文武天皇と並んで座って政務をとったとあるので、持統の政治関与は在位期間に限られていない。持統天皇は天武天皇とともに「大君は神にしませば」と歌われており、天皇権力強化路線の最高到達点とも目される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%81%E7%B5%B1%E5%A4%A9%E7%9A%87 前掲
ちなみに、「平城京<は、>・・・唐の都の長安を模倣して作られたというのが一般的な定説である。しかし、先行する藤原京の場合大内裏に当たる部分が中心に位置しており、北端に置いたのは北魏洛陽城などをモデルとした、日本独自の発展形ではないかという見方もある。しかし、<支那>の辺境の異民族の侵略を重く見た軍事的色彩の濃いものでなく、極めて政治的な都市であった。」(上掲)とされるところ、ここも、「北魏洛陽城・・・をモデルとした」と、私は見ている次第です。(太田)
そして征服活動をつうじて獲得した人や家畜を代人集団内で分配することで、利益共同体としての結束を高めていったのである。
北魏が長期的に華北を支配できた要因はここにある。」(98)
(続く)