太田述正コラム#13642(2023.8.2)
<松下憲一『中華を生んだ遊牧民–鮮卑拓跋の歴史』を読む(その8)>(2023.10.28公開)

 「・・・太武帝(<諱は>拓跋燾(たくばつとう)、字は仏理(ふつり)<(注23)>)は408年・・・平城・・・で生まれた。・・・

 (注23)「古代テュルク諸語のburiで、狼を意味する。・・・第2代明元帝の長男。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E6%AD%A6%E5%B8%9D

 422年、拓跋燾は・・明元帝が病に倒れると・・・監国(かんこく)(皇帝の代理で政治をとる)とな・・・った。
 423年10月、明元帝が32歳で病死すると、拓跋燾は15歳で皇帝に即位した(太武帝)。・・・
 <425>年には<(注24)>遠征の軍を起こし、ゴビを越えて柔然可汗の大檀(だいだん)を北への遁走させた。・・・

 (注24)「5世紀から6世紀にかけてモンゴル高原を支配した遊牧国家。・・・モンゴル系と考えられている。・・・
 北魏との対立を深めた柔然は南朝宋・夏・北涼・北燕・高句麗・吐谷渾と結んで北魏包囲網を形成した。夏・北涼・北燕はやがて北魏により滅ぼされるが、柔然は勢力を保ち続け、吐谷渾を介在して宋と連絡を取り合っていた。
 これに不快感を覚えた北魏の太武帝は429年・449年の2回にわたる親征軍により、柔然は本拠地を落とされて可汗は逃走中に死去した。しかしそれでもなお柔然は強勢を維持し続け、北魏も対南朝の関係から北だけに目を向けるわけにはいかなかった。
 柔然が本格的に弱体化するのが485年・486年に配下の高車が自立してからである。高車の反乱は治めたもののそれに乗じて、鍛鉄奴隷とみなされていた従属部族の突厥が隆盛し、552年、突厥の伊利可汗との戦闘に敗れて可汗の阿那瓌が自殺し、残党は拓跋系の懐朔鎮軍閥の主導する華北東部の北斉に援助を求めたが突厥の要請により殺され、柔然は完全に滅亡した。
 なお、アヴァール族<(コラム#13564)>は柔然の一派ではないかとの説がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%94%E7%84%B6

 <また、>北魏の宿敵の夏<(注25)も>滅<ぼした>(431年)。・・・

 (注25)「夏(か、407年 – 431年)は、五胡十六国時代に匈奴鉄弗部の赫連勃勃(劉勃勃)によって<北魏南西に>建てられた政権。一般に「大夏」と呼ばれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F_(%E4%BA%94%E8%83%A1%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%9B%BD)

 <そして、>436年・・・北燕<(注26)も>滅んだ。

 (注26)「(407年 – 436年)。鮮卑化した漢人将軍馮跋<(ふうばつ)>が、後燕王の慕容熙を廃して建国した。
 [馮跋の弟<で第2代天王となった>の馮弘は、]435年1月には遂に・・・東晋滅亡後に成立していた宋・・・の属国となって支援を受けたが、北魏からはその後も攻撃を受け続け、436年3月には北魏の大規模な攻勢を受けたので、4月に高句麗に亡命した。これをもって北燕は国家としては滅亡した。馮弘は高句麗から宋への亡命を希望したが、438年3月に北魏の圧力に屈した高句麗によって殺害され、北燕は完全に滅亡した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%87%95
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AE%E5%BC%98

 439年6「月、太武帝みずから大軍を率いて北涼<(注27)>の征討に出発。

 (注27)「五胡十六国時代に甘粛省に存在した国。建国者は段業だが、実質的な創始者は盧水胡の沮渠蒙遜である。・・・沮渠蒙遜ははじめ後涼に属しており、匈奴系であるとも月氏系であるともいわれ諸説存在する。・・・
 沮渠蒙遜が死去すると、北魏は・・・沮渠牧犍を擁立するなど、すでに北魏の内政干渉をもろに受ける立場にまで追い込まれていた。・・・北涼は沮渠牧犍の妹を北魏皇帝の太武帝に入嫁させ、太武帝の妹の武威公主を北涼に入嫁させるという二重の通婚関係を結ぶなど強い友好関係を結んだ。
 439年9月、・・・北魏の太武帝・・・の圧力に屈した沮渠牧犍は北魏に降伏し、北涼は滅亡した。
 北涼君主の沮渠牧犍は北魏の首都平城に送られ、447年に謀反の罪で自殺を命じられた。
 北涼滅亡後、沮渠牧犍の弟である沮渠無諱と沮渠安周は442年9月に酒泉・敦煌・高昌と西遷して自立し、高昌北涼を建国した。沮渠氏は河西王として南朝宋に封ぜられるが、沮渠氏が西遷するまで高昌を支配していた唐契の一族が結んでいた柔然が高昌に来寇したため、高昌北涼は2代で滅亡したが、高昌国自体は唐に支配されるまでの約200年間にわたり続いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%B6%BC

 8月には首都・・・にいたった。・・・
 これでもって五胡十六国時代は終焉をむかえたと世界史教科書にも書いてある。
 この理解は一面では正しい。
 しかしこれで北魏による華北統一が完了したのかというとそうではない。
 まだ甘粛南部に後仇地<(注28)>が残っている。

 (注28)「仇池(きゅうち)は、氐族酋長の楊茂搜が樹立した地方政権。西晋時代に自立し、五胡十六国時代に割拠した。仇池とは嘉陵江の支流西漢水上流の地名で、現在の甘粛省成県に当たる。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%87%E6%B1%A0 
 「氐(てい・・・)は、かつて<支那>の青海湖(現在の青海省)周辺に存在した民族。チベット系というのが有力で、紀元前2世紀ごろから青海で遊牧生活を営んでいた。近くには同じく遊牧を生業とする羌族がいた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%90

 後仇地の平定は3年後の442年なので、この時点で華北統一が完了したことになる。」(104~108)

⇒柔然の一派の可能性があるアヴァ―ル「ごとき」でも欧州で一時隠然たる勢力を築いた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%AB
というのに、柔然を鎧袖一触だった北魏が、華北統一の余勢をかって、支那統一をすぐに成し遂げられなかったのがむしろ不思議です。(太田)

(続く)