太田述正コラム#13646(2023.8.4)
<松下憲一『中華を生んだ遊牧民–鮮卑拓跋の歴史』を読む(その10)>(2023.10.30公開)

 「・・・423年・・・2月、東・・・から西・・・まで、平城の北側を通るラインで約1000キロにおよぶ長城<(注32)>が建設された。

 (注32)「漢の長城はすべての長城の中でも最も長く、西は現在の甘粛省西端にある玉門関から東は朝鮮半島北部にまで達していた。
 しかしこの長城も8年に建国された新王朝期の混乱によって大打撃を受け、25年に後漢が建国されたころにはかなり荒廃した状態となっていた。光武帝期にはやや復興の兆しがあったものの、結局のところ維持ができず、後漢の半ばごろには長城は放棄されてしまった。その後、三国時代や五胡十六国時代には北方異民族の力が強くなり頻繁に侵入が繰り返されたものの、中原の諸王朝に長城を維持する国力はなく、長城防衛は放棄されたままだった。
 長城防衛が復活するのは、華北を統一した鮮卑族の北魏王朝の時代である。この時期、北魏のさらに北方に柔然が勃興し勢力を強めたため、北魏は423年に首都平城の北側、現代の北京の北側から陰山山脈の南麓にかけて長城を建設し、その来襲に備えた。この長城は、漢代長城よりかなり南寄りに位置し、東部はほぼ現在の線に沿ったラインに建設されていた。この長城はその後渤海にまで延長され、東西分裂後の東魏、さらには北斉にも引き継がれた。北斉の時代には柔然に代わって突厥が勢力を拡大し盛んに南進したため、この長城に加え、さらに華北平原の北、山海関から北魏の長城まで長城を延長し、さらにそこから太行山脈の南端まで長城を建設することで、首都鄴のある華北平原を取り囲む一大長城を建設した。さらにその西、晋陽の西側の山脈に南北に走るもう一つの長城を建設し、領土を長城で固く守る体制を作り上げた。この長城は552年から565年にかけて建設されたが、北斉の内政は混乱を続けており、北周の侵攻に長城は何の役割も果たさないまま577年に北斉は滅亡した。北周を簒奪して建国され、のちに中国を統一した隋もこの長城を維持し、さらに文帝は首都大興を守るために黄土高原を東西に横切る長城を建設した。煬帝もいくつかの長城を建設している。
 その後、唐王朝は長城防衛そのものをふたたび放棄し、その後の五代十国や宋王朝もこの方針を引き継いだため、長城はしばらく<支那>史から姿を消した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E9%87%8C%E3%81%AE%E9%95%B7%E5%9F%8E

 長城沿いの各所には砦がおかれた。
 ついで446年・・・6月、10万人を動員して、<南に、東西に>・・・約500キロにおよぶ長城を築いた。
 北魏の長城は畿内を囲むという意味から「畿上塞囲(きじょうさいい)」と呼ばれた。・・・
 南朝宋が北方の柔然と手を組んで、北魏を南北から挟撃する姿勢を見せた。
 それをうけて、明元帝<(注33)>は423年、まず平城の北側に柔然の南下を防ぐための長城を築いた。

 (注33)392~423年。皇帝:409~423年。「拓跋珪(道武帝)の長男として生まれる。母の劉貴人は拓跋嗣が立太子される前、代・北魏の慣習に従い道武帝より死を賜った。これを知った拓跋嗣は嘆き悲しみ、道武帝に反発して出奔したことがあった。
 409年、父の道武帝が異母弟の拓跋紹(次男)によって殺害される事件が発生すると、拓跋紹を討ち即位する。
 漢人官僚の崔宏・崔浩を用い統治機構の整備に腐心した。戦乱に明け暮れた治世を送<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%85%83%E5%B8%9D

 つぎに事態が動くのは、太武帝<(注34)>の445年・・・9月のこと。

 (注34)408~452年。皇帝:423~452年。「華北の統一に成功した。五胡十六国時代の終焉である。その後、内蒙古の北辺防備のために、6か所の鎮(六鎮)を中心とした屯田地帯を設けた。
 太武帝は、444年に、漢人宰相の崔浩と、信奉していた新天師道の開祖である道士の寇謙之の進言もあってか、広く人士に対して僧侶や師巫を養うことを禁止する詔を出した。それに次いで446年、蓋呉の乱の平定のために長安に向かった時に、長安の寺院中より大量の武器が発見されるという事件が起こった。これによって廃仏の詔を発し、寺院や仏像を破却し、沙門は坑殺に処した(三武一宗の廃仏の第1)。なお、この廃仏を北涼の滅亡をきっかけとして西域貿易を国家の手で掌握したいとする太武帝とこれに反発する商人や彼らから信仰されて保護を受けていた仏教寺院との対立とする解釈もある。
 450年に、100万と称した大軍を率いて南征に出発した。南朝宋は大敗し、戦死者は万単位に上ったと伝えられている。北魏軍は瓜歩まで進軍したが、結局、長江を渡ることはなく都の平城に引き返した。ただ、捕虜となった宋民5万余戸は畿内に分配された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E6%AD%A6%E5%B8%9D

 ・・・蓋呉(がいご)が長安で反乱を起こし・・・南朝宋・・・<から>援軍を送る約束を取り付けた。
 太武帝はこの動きを踏まえ、今度は平城の南側に長城を築いた。・・・
 <これには、>外からの侵入を防ぐことと、内から外への部族の逃亡を防ぐことの二つの目的がある。
 またこの畿上塞囲は、北魏が長期にわたって華北を支配できた要因でもあった。・・・」(111~112)

⇒どうして、太武帝が一挙に宋を攻め滅ぼさなかったのか、依然、モヤモヤ感が残りますが、やはり、根拠地たる北魏国内に漢人や拓跋部以外の遊牧民といった潜在敵を抱えていて、彼らが反乱を起こし、塞外勢力と組んで背後を衝かれることへの心配が拭えなかったのではないでしょうか。
 なお、「注34」に出て来る同帝の廃仏については、彼が、仏教の本質が人間主義性の回復・維持であることを理解していたとは全く思わないところ、まともな仏教徒なら遵守すべきとされる殺生戒、が、遊牧民の日常的生活習慣と相容れない上、定着民からの間歇的(な、殺人を厭わない)略奪、を旨として出発したところの、自分達が支配する征服国家、の存立を危うくするもの、と、「正しく」認識していたからだと想像しているのですが・・。(太田)

(続く)