太田述正コラム#13650(2023.8.6)
<松下憲一『中華を生んだ遊牧民–鮮卑拓跋の歴史』を読む(その12)>(2023.11.1公開)
「給料を支給するためには、給料のもととなる税を確保しなければならない。
そこで国民に土地を支給し、収穫物を税として徴収する仕組みとして均田制が導入された。
また国民に土地を支給したり、税を徴収するためには戸籍が必要となる。
そこで戸籍を作成し、徴税を担当するものとして、隣長(りんちょう)(五家を一隣)・里長(りちょう)(五隣を一里)・党長(とうちょう)(五里を一党)の三長が置かれた。
さらにこれまで遊牧民は部族大人によって管理されていたが、これ以降、遊牧民も漢族とおなじく州郡県のもとで戸籍に登録して土地を支給することになり、部<族>大人制は廃止された。・・・
これまでの中国王朝でも土地の支給や所有に関する制度はあった。
例えば、周の井田制(せいでんせい)(土地を井の字形に九つに分けて周囲の八つを支給し、中央の一つを共有地とする)、前漢の限田制(大土地所有者に対する土地所有の制限)、三国魏の屯田制(土地を持たない人に土地を支給して一般より高めの税をとる)、西晋の占田(せんでん)・課田法(かでん)法(身分に応じて土地所有の上限をさだめる)など。
しかしこれまで実施された土地制度には、支給した土地を国家に返還する規定はなかった。
北魏の均田制になってはじめて土地の支給と返還の規定ができた。
均田制実施の背景にはもう一つ、南朝との関係の変化があった。
466年、南朝の宋では晋安王子勛<(注36)>(しんあんおうしくん)の乱がおこり、子勛派の将軍薛安都<(注37)>(せつあんと)が北魏に救援を求めてきた。
(注36)劉子勛(りゅうしくん。456~466年)。「孝武帝・・・の三男<。>・・・孝武帝が崩じた後・・・、長兄の前廃帝劉子業・・・が多くの大臣を殺害しており、・・・兵変を起こして劉子勛を擁立する計画を立てた<者がいた>。しかしその計画は漏れ、前廃帝が宿衛の兵を自ら率いて<その者>を誅殺した。続いて前廃帝は左右侍従・・・を遣わし、毒を送って劉子勛を自害させようとした。しかし・・・、江州長史の鄧琬・・・らは前廃帝の廃立を名目に劉子勛を奉じて兵を起こした。叔父の湘東王劉彧が前廃帝を殺害して建康を掌握する(明帝)と、・・・鄧琬らはその命を拒否し、劉彧の即位に反対する檄を飛ばした。・・・466年・・・1月7日、鄧琬らに擁立された劉子勛は尋陽で帝を称し・・・た<が、>明帝側<は>・・・補給路を遮断し<、>8月、・・・劉子勛・・・は、・・・殺害された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E5%AD%90%E5%8B%9B
(注37)410~469年。「劉子勛が敗死すると、安都は・・・明帝への帰順を申し入れた。明帝は・・・迎えようとしたが、安都は免罪されないことを恐れて、意を翻して北魏と連絡を取った。・・・467年・・・1月、北魏が・・・2万騎を発して安都を救援した。<宋軍>は撤退し、安都は開門して魏軍を迎え入れ、北魏の献文帝は安都を使持節・散騎常侍・都督徐南北兗青冀五州豫州之梁郡諸軍事・鎮南大将軍・徐州刺史に任じ、河東公の爵位を与えた。・・・468年・・・、・・・平城で献文帝の朝見を受け、礼遇された。子弟たちも上客として待遇され、みな爵位を受けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%9B%E5%AE%89%E9%83%BD
北魏はこれに援軍を派遣することで、宋の領土であった淮水の北を手に入れた。
このことが、北魏の国家体制に変化をもたらした。
これまで胡族が軍事、漢族が農業という民族的分業体制をとっていたが、淮北併合によって、南朝との国境に配備する兵士の大量確保が必要となったのである。
均田制には、土地支給による税の徴収のほかに、兵役負担者を確保する目的もあったと・・・佐川英治<(注38)>・・・氏は指摘する・・・。」(138~140)
(注38)1967年~。岡山大文(史学)卒、大阪市立大修士、武漢大高級進修生、大阪市立大博士課程修了、博士、岡山大文助教授、准教授、東大准教授、教授。専門は魏晋南北朝史などの中国古代史。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%B7%9D%E8%8B%B1%E6%B2%BB
⇒支那本土では、支那史中、例外的に、南北並立ならぬ南中北鼎立時代なのであり、このうち、中に位置した北魏が、南北に敵を抱え、最も安全保障に腐心しなければならなかった以上、国家制度の改革の一義的理由は安全保障に求めなければならないのであって、佐川の指摘はもっともです。(太田)
(続く)