太田述正コラム#13652(2023.8.7)
<松下憲一『中華を生んだ遊牧民–鮮卑拓跋の歴史』を読む(その13)>(2023.11.2公開)
[前秦・苻堅]
「氐(てい・・・)は、かつて<支那>の青海湖(現在の青海省)周辺に存在した民族。チベット系というのが有力で、紀元前2世紀ごろから青海で遊牧生活を営んでいた。近くには同じく遊牧を生業とする羌<(きょう)>族がいた。 ・・・五胡十六国時代(304年 – 439年)になると、氐族は成漢・前秦・後涼などの国を建てた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%90
「苻堅<(ふけん)(338~385年。天王:357~385年)>は、・・・前秦の第3代皇帝(大秦天王)。・・・
漢族の有力貴族で、さらに名宰相でもあり名将でもあった王猛の補佐を受け<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%BB%E5%A0%85
この「苻堅は、宰相の王猛を重用して前燕や前涼等を滅ぼし、五胡十六国時代において唯一の例である華北統一に成功した上に東晋の益州を征服して前秦の最盛期を築いた。<支那>統一を目指して383年に・・・総勢100万(90万とも)と号する東晋討伐の・・・大軍を南下させたが、諸因により淝水の戦いで東晋に大敗した。以後統治下の諸部族が反乱・自立すると前秦は衰退し、苻堅は385年に独立した羌族の部下姚萇に殺害された。・・・
苻堅は当時混乱していた華北統一のため、[「四海混一(しかいこんいつ)]<なる>諸民族融合政策を採用した。
[<この>の考えを、北魏の鮮卑族の孝文帝が受け継ぐことになる。]
<苻堅の場合、>自らが征服した鮮卑や羌などを都の周辺に移住せしめて重用し、自らの族である氐を中央から新たに支配領域となった地域へと移住させた。この政策は前秦の根幹を成す氐の集団としての紐帯を弱体化させ、結果的に前秦王朝解体へとつながる事になった。・・・
ただ、当時の五胡政権に共通して言える事であるが、彼らの王権は一君万民的な構造によって成立していたわけではなく、王族や部族長によって率いられた諸集団の連合政権として成立していた。前秦の場合は氐を中核として匈奴や鮮卑を支配し、さらに漢族を支配するという連合国家として成立しており、王権を強化しようとしてもその成長を阻害する要因が数多く存在していたのである。ましてや苻堅の場合は現状維持ではなく積極的な勢力拡大に出たため、当然新たな支配地からの人材や税収、軍事力に資源の獲得は王権の強化のためには必要不可欠であり、そのためにあえて民族融合策を採用していたといえる。<実際、>前秦が滅ぼした旧国の皇族に要職や一軍を与え<てい>た<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%A7%A6
https://spc.jst.go.jp/experiences/impressions/impr_09011.html
「・・・490年、文明太后が死去し、翌年、親政を開始した孝文帝は矢継ぎ早に改革を実行していく。
孝文帝の改革は、胡語・胡服の禁止に代表されるように漢化政策と呼ばれるが、・・・<こ>の改革を総括すると、それまでの胡漢二重体制をやめて、中国の皇帝制度による支配体制に一本化するものである。
つまり皇帝を頂点として、胡族と漢族とをあわせた社会を構築するのがねらいなのだ。
ただし胡族と漢族をあわせるというのは、胡族を漢族にすることではない。
胡族の家柄と漢族の家柄とを等しいランク同士であわせ、家柄による社会階層をつくることをさす。・・・
おもに胡族から構成された内朝での合議によって北魏の政治は動いてきた。
しかしそれは時に皇帝の思うようにならないこともあった。
そのような部族長による合議体制を廃止し、皇帝に権力を集中させることが孝文帝の狙いだったのである。・・・
⇒寺岡伸章(科学技術振興機構・中国総合研究センターシニアフェロー)は、「北方少数民族はカリスマ的なリーダーが現れると民族の興隆が起こるが、リーダー不在時には国力が急に衰える。漢民族は官僚機構などの組織をつくるため、指導者が有能でなくとも国力の衰退が少ない。組織をつくる方が安定で進歩的である。少数民族のなかで漢文化の優位性を認め、民族の発展のためにそれらを導入しようという機運が生まれてくる。」
https://spc.jst.go.jp/experiences/impressions/impr_09011.html 前掲
と指摘していますが、北魏の内朝/合議制もまた、一応、「指導者が有能でなくとも国力の衰退」を回避するための制度ではあったところ、孝文帝は、漢族も統治に参画させるためには統治組織の抜本的改編を行う必要があると考えたのでしょうね。(太田)
<また、北魏初代皇帝の>道武帝の子孫と、代国時代の君主の子孫とを区別すること<も>ねらいの<一つ>だった。・・・
493年8月、孝文帝は突然、南朝を討伐するとして100万の軍隊を率いて平城を出発し、9月に洛陽に入った。
冷たい雨の降るなか、さらなる南下の命を出すが、臣下たちが中止を求めて馬前に並んだ。
孝文帝はこのまま何もせずに平城に戻るわけにはいかない。
南朝を討たないなら、洛陽に遷都する。
賛成するものは右に並べと言って、臣下たちは右に並んだ。
こうして洛陽への遷都が決定された。」(142~143、145)
⇒とまれ、孝文帝は、あらゆる意味で、苻堅の生涯を参考にした、と、思われます。(太田)
(続く)