太田述正コラム#13662(2023.8.12)
<森部豊『唐–東ユーラシアの大帝国』を読む(その1)>(2023.11.7公開)
1 始めに
鮮卑系諸王朝のしんがりを務めた唐についての表記を取り上げます。
なお、森部豊(もりべゆたか。1967年~)は、「愛知大文(史学)卒、筑波大院博士課程単位取得退学、同大博士(文学)、同大技官、関西大助教授、准教授、教授。「唐朝の羈縻政策に関する一考察―唐前半期の営州都督府隷下羈縻州を事例として―」(『東洋史研究』80-2、2022)により第32回蘆北賞(論文部門)を受賞、という人物
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E9%83%A8%E8%B1%8A
です。
2 『唐–東ユーラシアの大帝国』を読む
「・・・東ユーラシアでは、3世紀頃から気候が寒冷化し、これをうけてモンゴリアにいた鮮卑や羯<(コラム#10982)>などの騎馬遊牧民がつぎつぎと黄河流域(北中国)の農耕社会に移動しはじめる。<(注1)>亅(12~13)
(注1)α:「西暦100年代からの気候の寒冷化の影響により,温暖の時期に比べて農業がうまくいかなくなり,生産力の低下が起こる。これは国家の側から見れば税収が減ることを意味する上,農業生産に基盤を置く当時の経済においても不景気が起こってきたことが想像される。その結果,国家の税収が上がるわけもなく,軍などの維持も難しくなり,広大な中国を統一する国家を形成し続けることも困難となって,比較的小規模な勢力に細分化し,国家の体制そのものの維持も困難になった。
また,この時期から遊牧民の動きが活発になる。寒冷化による気温の低下は,高緯度になるほど厳しいとされ,寒冷な夏は北方に住んでいた遊牧民に対して南方への移住をせまり,彼らは農耕民の世界に侵入してきた。これが民族大移動の時代の始まりである。平和的に移住してくる場合でも混乱は起こり得るが,遊牧民が攻め込んでくれば混乱はさらにひどくなる。」(創価大学文学部・創価高等学校地歴公民科非常勤講師・満田剛「中国・三国時代史:”3世紀の危機”の視点から」
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjQ7fe0i6eAAxX_plYBHczFAg8QFnoECA0QAQ&url=https%3A%2F%2Fsoka.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D37856%26item_no%3D1%26attribute_id%3D15%26file_no%3D1&usg=AOvVaw22eUb2ljibcL4g5JDzTUSn&opi=89978449
β:「なぜゲルマン民族が大移動したのかというと、<5世紀に>アジアから「フン族」という騎馬民族がやってきてゲルマン民族の住む地域を征服したから。つまりフン族から逃れるために、ゲルマン民族は西ローマ帝国領土へと移動したのです。
では、そもそもの原因である、フン族がゲルマン民族の土地にやってきた理由は何でしょうか。フン族は、アジアの匈奴であるという説があるものの、実は謎に包まれた民で、移動してきた目的も不明のまま。ただ、フン族がやってきた時期にアジアで異常気象が起こっていたことはわかっています。」
https://studyu.jp/feature/theme/historical_climatology/
γ:「ゲルマン民族大移動。その主因として挙げられるのは、中央アジアの遊牧騎馬民族フン族の西進です。しかし最近は彼らがローマ領内に大挙を始めたのは、それだけが原因ではないことがわかっています。
3世紀頃から寒冷化により食糧が不足したため、より住みよい暖かい南方へ移動を始めた、というのも大移動の有力な原因とされているのです。
ゲルマン人のローマ領への侵入自体は、帝政期以降たびたび行われていましたが、帝政初期はローマ全盛の時代だったため軍事的優位で侵入を防げていました。
しかし帝政末期になると、寒冷化により食糧の安定供給が滞り、国は衰退していきます。そうなると防衛力が低下し、ゲルマン民族が大挙してくるようになるのです。」
https://europa-japan.com/euro-history2/germanic-migration/entry1437.html
⇒ 「中世の温暖期(約900年から約1400年)や小氷期(約1400年から約1900年)と呼ばれるような気候変動があった」
https://www.cger.nies.go.jp/ja/library/qa/24/24-2/qa_24-2-j.html
ところ、上掲収録の「北半球の気温偏差」グラフを見ると、「中世の温暖期」より前は、200年からのグラフながら、確かに相対的に気温が低かったようです。
残念ながら、それより更に前の気温がプロットされていないのですが、「注1」中のα~γが主張しているように、100年代から400年代にかけて東アジアと欧州で起こった民族移動の背景に気候の寒冷化があった可能性はありますね。(太田)
(続く)