太田述正コラム#13666(2023.8.14)
<森部豊『唐–東ユーラシアの大帝国』を読む(その3)>(2023.11.9公開)

 「・・・唐の場合、たしかに漢字文化をとりこみ、また秦漢時代から発達してきた「中国的」政治制度や経済のシステムの上に成りたっていた王朝という側面はある。

⇒「秦漢時代から発達してきた「中国的」政治制度や経済のシステム」について、改めて、漢を、誰かの著書のシリーズで取り上げて、振り返ってみたいと思っています。(太田)

 しかし、それはすでに、古典中国の復活ではなく、かなり変容したものだったにちがいない。
 その変容をもたらしたのは、騎馬遊牧民の存在であり、遊牧文化と中国的古典文化の融合した帰着点が唐だったといえる。
 また、それとは別に、約290年つづいた唐という時代には、かなり大規模な人的移動がおこっていることも無視してはならない。・・・
 7世紀前半に東突厥がほろんだ結果、モンゴリアから北中国へすくなくとも10万、最大で100万規模の遊牧民が移動している。
 それに8世紀半ばの「安史の乱」では、東ユーラシアのみならず、中央アジアや西アジアからも人間の移動を見ることができる。
 さらに8世紀後半から9世紀はじめにかけて、チベット帝国とウイグル帝国の衝突にともない、テュルク系の沙陀<(注3)>(さだ)やそのほかの部族が東トルキスタンや河西(かせい)(甘粛省)から中国へ移動してくる。・・・

 (注3)「北アジア、西突厥(とっけつ)の一派。唐初には天山山脈の東部にいて、高宗(在位649~683)のとき唐の間接支配を受けたが、吐蕃(とばん)の圧迫を受けて北庭(ビシュバリク)方面へ移り、のち唐に降(くだ)った(808)。唐はこれをオルドスの塩州に置き、族長朱邪執宜(しゅやしつぎ)を西北辺の防衛にあたらせた。その子赤心(せきしん)は唐末の混乱期の反乱を平定するのに功績をたて、唐から李国昌(りこくしょう)の姓名を与えられた。国昌の子李克用(りこくよう)は唐を助けて黄巣(こうそう)の乱の平定に努め、さらにその子李存勗(りそんきょく)は後梁(こうりょう)にかわって後唐(こうとう)を建てた(923)。五代の後晋(こうしん)、後漢(こうかん)も、沙陀の建てた王朝である。」
https://kotobank.jp/word/%E6%B2%99%E9%99%80-69081

 そしてもう一つ、忘れてはならないのが、中央アジア出身のイラン系ソグド人<(注4)>の活動と、彼らが唐にあたえた影響である。

 (注4)「ソグド人(ソグドじん、粟特人、英: sogd)は、中央アジアのザラフシャン川流域地方に住んでいたイラン系(ペルシア系)のオアシスの農耕民族。また、商業を得意として定住にこだわらず、シルクロード周辺域の隊商をはじめとして多様な経済活動を行った。ソグド語はイラン語派に属する・・・。
 ソグド人はアケメネス朝の支配下にあった頃より交易に従事した。マケドニア王国のアレクサンドロス3世の征服や、その後のグレコ・バクトリア王国支配下においても交易を続けた。クシャーナ朝、エフタル、突厥と、たびたび遊牧国家の支配を受け、その都度支配者が変遷したが、ソグド人は独自の文化を維持した。ソグド語とソグド文字を使い、宗教的にはゾロアスター教を信仰したほか、2世紀から3世紀にかけては<支那>に仏教を伝えた。6世紀から7世紀にはマニ教とキリスト教のネストリウス派を中国やテュルク人に伝え、東方のイラン系精神文化も<支那>にもたらした。活動範囲は東ローマ帝国から唐の長安にまで及んだが、イスラム勢力の台頭によりイスラム化が進み、12世紀にはその民族的特色は失われた。ソグディアナはウズベク人の南下によるテュルク化が進んでいき、<支那>では漢人の文化に同化していった。・・・
 ソグド人が商人として各地に散らばったため、ソグド語・ソグド文字は中央アジアのシルクロードにおいて国際共通語となった。ソグド文字はアラム系文字であるため当初は右からの横書きだったが、のちに縦書きに変化した。・・・ソグド文字が縦読みに変化したのは、<支那>の碑石や漢字の影響があるとされている。・・・他方、洋装本では横書きが続き、10世紀にソグド文字で書かれたマニ教やキリスト教の文献には横書きになっているものがある。ソグド文字はウイグル文字のもとになり、さらに13世紀にモンゴル文字へ、16〜17世紀には満州文字のもとになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%B0%E3%83%89%E4%BA%BA

 従来、ソグド人といえば、商人として「シルクロード貿易」にかかわり、絹の交易に従事したとか、中央アジアから唐へ仏教、キリスト教、マニ教、ゾロアスター教などの宗教を伝える媒介をはたしたなど、経済上、文化上の視点から語られることが多かった。
 しかし、この20年ほどの間<に>・・・、彼らが、中国王朝の中ではたした、政治・外交・軍事上の役割が明らかになってきた。」(20~22)

⇒ソグド人は、これまでの私の視野の中に殆ど入っていませんでしたね。(太田)

(続く)