太田述正コラム#13670(2023.8.16)
<森部豊『唐–東ユーラシアの大帝国』を読む(その5)>(2023.11.11公開)

 「・・・唐の初代皇帝となる李淵は、北周の都の長安で生まれた。・・・
 李淵の祖父の李虎<(注7)>は、北魏末の武川鎮の軍人だった。

 (注7)りこ(?~551年)。「武川鎮(現在の内モンゴル自治区フフホト市武川県)の出身。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E8%99%8E

 李淵の母は、武川鎮の軍人でのちに西魏の元勲となる独孤信<(注8)>の娘だった。

 (注8)どっこしん(502~557年)。「西魏の匈奴系軍人。武川鎮軍閥の重鎮<。>・・・長女 独孤氏(北周の明帝の明敬皇后)<、>四女 独孤氏(唐の元貞太后、高祖李淵の母)<、>七女 独孤伽羅(隋の文帝楊堅の文献皇后)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AC%E5%AD%A4%E4%BF%A1

 李淵の母と隋の文帝の皇后は姉妹だったので、李淵から見て、文帝は母方の伯父、煬帝はいとこだったことになる。・・・
 隋末の反乱に参加する前の李淵は、隋朝の太原留守(たいげんりゅうしゅ)の職にあった。
 留守とは臨時の職で、ほんらい皇帝が巡行するとき、王都で皇帝のかわりをつとめるものだが、隋末には、地方の重要都市にもおかれていた。
 太原(山西省)は、モンゴリアの遊牧勢力である突厥の南下にそなえる隋の重要な軍事拠点の一つであった。・・・
 <ちなみに、>突厥・・・は、匈奴や鮮卑、柔然などはモンゴル語系統の言語を話す人びとであったから、・・・モンゴリアを制覇したはじめてのテュルク系遊牧政権ということになる。・・・
 李淵の性格は優柔不断だったといわれる。
 隋末の混乱したときにあっても、みずから挙兵しようとは思ってはいなかったという。
 それに対し、次男の李世民(598~649年)は積極的であり、また李淵配下の文武官や、当時、太原に身をよせていた隋の反煬帝派の官僚たちも、李淵に挙兵させようとしていた。・・・
 李淵が、隋唐革命を成功させることができたのは、次のような理由がある。
 一つは、彼が太原留守だったことである。
 太原は、王都大興城と一本のルートでつながっていて、大興城へ短期間で攻め入ることができた。
 またこのルート上に、ほかの有力な群雄がいなかったことも、李淵に幸いした。
 太原で突厥防衛の任にあたっていた李淵は、軍の教練に、突厥方式の騎馬戦術をとりいれていた。このため、李淵軍の進軍のスピードはきわめて速く、群雄との対決で、その騎馬軍事力が大いに発揮されたのである。

⇒突厥の前の柔然の時代に、南朝が柔然に指導を仰いで騎馬軍事力の整備をどうしてしなかったのか、が不思議でなりません。(太田)

 二つめは、いち早く王都大興城を無血で占領できたことである。
 そのため、王都にあった官僚システムと統治に必要な行政文書を手にいれ、また国倉をおさえることにより膨大な物資を確保し、長期にわたる平定作業にそなえることができた。
 また、隋室を奉じ、禅譲をつうじて平和裏に革命を成功にみちびいたことも大きい。
 三つめは、突厥と和議をむすび、草原世界からの脅威をとりのぞいたことがあげられる。
 大興城へ進撃する際に、李淵は<東>突厥から援軍をうけた。
 ただし、こうした援軍は、革命成就後、場合によっては<東>突厥からの干渉をまねくことも考えられた。
 しかし、実のところ<東>突厥の援軍は、馬は2000頭いたが、騎兵は500人にすぎず、それほど多くはなかった。
 李淵は、突厥の騎兵が少なく、馬が多かったことによろこんだという。
 それは、突厥の過度な干渉をさけることができるという思いだったのかもしれない。・・・

⇒突厥は582年に内紛で東西に分裂していました
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AA%81%E5%8E%A5
東突厥が、単独で領域等の獲得に乗り出さなかったことはさておき、自身の大軍を李淵を支援する形で送り、その見返りに旧隋領の相当部分を奪取し、西突厥の圧倒を目指そうとしなかったのはどうしてか、知りたいところです。(太田)

 四つめは、李淵が武川鎮集団の中で、家柄がよかったことである。
 李淵の妻<(注8)>(竇氏)の祖父の宇文泰は、西魏の実権をにぎり、北周の実質的な建国者であった。

 (注8)たいぼくとうこうごう(?~?年)。「父は河套(オルドス)地方で遊牧生活を守る匈奴系の費也頭集団のリーダーで、北周の上柱国でもあった竇毅である。母は西魏の執政宇文泰(北周の文帝)の五女の襄陽長公主であった。・・・
 宇文泰の四男で母方の叔父にあたる北周の武帝に特に可愛がられ、宮中で養育された。ときに突厥の阿史那氏が武帝の皇后となったが、寵愛されることがなかった。竇氏は「四辺は静まらず、突厥は強盛です。叔父上も感情を抑えて慰撫なさいませ。突厥の助けがあれば、江南の陳も関東の北斉も患いとはなりますまい」と諫めた。武帝は喜んで聞き入れた。武帝が亡くなると、実父を失ったかのように悲しんだ。
 楊堅(隋の文帝)が帝位に就くと、北周宗室の宇文氏は一族皆殺しとなった。竇氏は床に突っ伏して「わたしが男子でないのが恨めしい。叔父上の家の禍を救えないとは」と嘆いた。竇毅は妻の襄陽長公主とともに彼女の口を急いで塞ぎ、「妄言してはいけない。われら一族が滅ぼされるぞ」と言った。
 竇毅はいつも「この娘は才能も容貌もこのとおりであり、みだりに人に嫁がせてはいけない。賢い夫を求めるべきだ」と襄陽長公主に言っていた。門の屏の間に2羽の孔雀を描き、求婚する諸公子に2本の矢を射させて、目に当てることができた者に彼女を嫁がせると約束した。射る者は数十を数えたが、みな当てられなかった。祖父の李虎の時代から費也頭と縁の深かった李淵が最後に射たところ、おのおの一目に当てたので、李淵に嫁ぐことになった。このことが後に隋末の動乱時、李淵の諸子(のちの太宗ら)が、いち早く費也頭の強大な軍事力と結びついて長安を押さえ、唐朝を樹立する上で大きな力になったとされる。
 李淵の母の独孤氏(元貞皇后)は老いて病となったが、性格が気難しく、李家の夫人たちはみな恐れて介護しようとしなかった。竇夫人ひとりだけがつつましく元貞太后に孝事して、自分の着替えもせずに付き添った。竇夫人は文章が得意で、文体は雅であった。また書をよくし、李淵と書を並べたとき、世の人は論評することができなかったという。
 李淵が母方の従弟に当たる煬帝の下で扶風郡太守となったとき、多くの駿馬を蓄えていた。竇夫人は「上は馬好きでいらっしゃいます。どうして献上なさらないのですか? いたずらにとどめていても罪を得るばかりで、無益でありましょう」と言った。李淵は聞き入れず、はたして譴責を受けた。
 竇夫人は涿郡で亡くなり、年は45であった。
 李淵はのちに隋の政治が乱れるのを見て、竇夫人の言葉を思い出し、自らの安泰を図るため、しばしば鷹や犬の変わった種類を献上した。煬帝は喜んで、李淵を将軍に抜擢した。李淵は泣いて「早くお前たちの母の言うことを聞いていれば、もっと長くこの官に居れたものを」と諸子に言った。
 李淵が帝位に就くと、竇夫人の葬園を寿安陵とし、諡を穆とし、新たに皇后を立てることはなかった。のちに献陵に改葬され、太穆皇后と追号された。上元年間、太穆神皇后と増諡された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%A9%86%E7%AB%87%E7%9A%87%E5%90%8E

 隋室の楊家は宇文氏から政権をうばったのみならず、その後、宇文の血をひく者をことごとく殺した。
 そのため、武川鎮集団の中の反楊家の人びとは、当然、家柄のよい李淵を後押しすることになる。
 五つめとして、李淵の妻が竇の一族出身であったことも忘れてはならない。
 <それは、>・・・匈奴系の「費也頭(ひやとう)」という部族のなかの一氏族だった。・・・
 北魏時代、費也頭は隠然たる力をもっており、北魏末の六鎮の乱をきっかけにオルドス(黄河が大きく・・・屈曲する部分の内側の地域)に広がって、東西魏が無視できないほどの遊牧勢力をたくわえていた。
 さらに費也頭はオルドスの西、河西回廊・・・にも進出していった。」(26、29、34~35、59)

(続く)