太田述正コラム#13676(2023.8.19)
<森部豊『唐–東ユーラシアの大帝国』を読む(その8)>(2023.11.14公開)
「・・・<太宗>の時期の唐の皇室が重視したのは、道教であった。
これは、唐に先立つ隋が仏教帝国だったこととは、大きく異なる。
唐室が道教を大切にしたのは、道教の始祖にまつりあげられた老子(本名李耳(りじ))と同姓だからとか、隋唐革命のとき、長安の西郊にある楼観<(注13)>(ろうかん)(道教最初期の宮観。老子から『道徳経』を授けられた尹喜<(注14)>(いんき)の旧宅)の道士が李淵を助け、大きく貢献したからだといわれる。
(注13) 「物見のたかどの。ものみ。」
https://kotobank.jp/word/%E6%A5%BC%E8%A6%B3-662518
(注14)「関尹子<(かんいんし)は、支那>上代の思想家。またはその著書の名。人物としての関尹子の名は、『呂氏春秋(りょししゅんじゅう)』や『荘子(そうし)』に静寂を尚(たっと)んだ人物としてみえるが、その経歴は明らかでない。ただ『史記』「老子伝」によると、関令(かんれい)尹喜(いんき)(関所役人の尹喜)なる人物がおり、老子は、彼の要請によりその書を著して授けたという。そして、この関令尹喜がすなわち関尹子であるとされることから、関尹子とは老子の一番弟子であり、『老子』を伝授された人物として伝えられるようになった。
書物としての『関尹子』は、その名に仮託して後世につくられたもの。1世紀につくられた書籍目録である『漢書(かんじょ)』「芸文志(げいもんし)」にその名のみえることから、前漢代にあったことは確かであるが、現行本『関尹子』1巻は、仏教、道教の思想を含むものであって、唐末五代(10世紀)以後の偽作であるといわれる。なお道教では関令尹喜のことを文始真人(ぶんししんじん)とよぶことから、本書は『文始真経』とも称する。」
https://kotobank.jp/word/%E9%96%A2%E5%B0%B9%E5%AD%90-48447
さらに玄武門の変のときも、仏教グループが李建成らを支持したのに対し、道教グループは太宗を支持した。・・・
この道教を重視する「道先仏後」<(注15)>の唐朝の姿勢は、武則天が仏教を重視した一時期をのぞいて、その後も一貫したものだった。
(注15)北魏大武帝の廃仏殿釈(四四四-四四六)による道教の飛躍的発展、そして四五四年の北魏仏教の復興、五七四年から七九年に至る北周武帝の廃仏殿釈、五八一年の隋の文帝の天下統一のための仏教復興政策、唐初高祖の仏教への国家的支援、太宗の道教重興など、仏先道後、道先仏後の反復は中国宗教史の大きなうねりである。」(宮崎忍勝「密教と道教の周辺」より)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeb1947/1987/159/1987_159_87/_pdf/-char/ja
宮崎忍勝については、遍路研究家で1999年に密教教化賞受賞、
https://www.nikkei.com/compass/search?category=cross&q=%E4%B8%AD%E6%B2%A2%E6%96%B0%E4%B8%80&page=20
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%86%E6%95%99%E6%95%99%E5%8C%96%E8%B3%9E
ということくらいしか分からなかった。
その姿勢には、隋を否定して登場してきた唐にとって、隋の文帝が仏教を統治イデオロギーに据えたことに対するアンチテーゼとして、道教を重視したという側面も考える必要があるだろう。
<そんな>太宗が玄奘<(注16)>を重用したのは、・・・中央アジアに覇権をとなえる西突厥をほろぼすため、玄奘がもつ最新の中央アジアの情報を・・・必要としていた<から>だ。・・・
(注16)玄奘(602~664年は、「629年・・・、隋王朝に変わって新しく成立した唐王朝に出国の許可を求めた。しかし、当時は唐王朝が成立して間もない時期で、国内の情勢が不安定だった事情から出国の許可が下りなかったため、玄奘は国禁を犯して密かに出国し、役人の監視を逃れながら河西回廊を経て高昌に至った。
高昌王である麴文泰は、熱心な仏教徒であったため、当初は高昌国の国師として留めおこうとしたが、玄奘のインドへの強い思いを知り、金銭と人員の両面で援助し、通過予定の国王に対しての保護・援助を求める高昌王名の文書を持たせた。玄奘は西域の商人らに混じって天山南路の途中から峠を越えて天山北路へと渡るルートを辿って中央アジアの旅を続け、ヒンドゥークシュ山脈を越えてインドに至った。
ナーランダ僧院では戒賢(シーラバドラ)に師事して唯識を学び、また各地の仏跡を巡拝した。ヴァルダナ朝の王ハルシャ・ヴァルダナの保護を受け、ハルシャ王へも進講している。
こうして学問を修めた後、西域南道を経て帰国の途につき、出国から16年を経た・・・645年・・・に、657部の経典を長安に持ち帰った。幸い、玄奘が帰国した時には唐の情勢は大きく変わっており、時の皇帝・太宗も玄奘の業績を高く評価したので、16年前の密出国の件について玄奘が罪を問われることはなかった。
太宗が玄奘の密出国を咎めなかった別の理由として、玄奘が西域で学んできた情報を政治に利用したい太宗の思惑があったとする見方もある。事実、玄奘は帰国後、太宗の側近となって国政に参加するよう求められたが、彼は国外から持ち帰った経典の翻訳を第一の使命と考えていたため太宗の要請を断り、太宗もこれを了承した。その代わりに太宗は、西域で見聞した諸々の情報を詳細にまとめて提出することを玄奘に命じており、これに応ずる形で後に編纂された報告書が『大唐西域記』である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%84%E5%A5%98
<太宗は、玄奘に、>インド往復の旅行に関する報告書の提出<を求めた>。
それが、現在、私たちが見ている『大唐西域記』である。」(75~76)
⇒北魏から唐に至る鮮卑系諸王朝の仏教との斜に構えた付き合い方は、殺生を禁じる仏教教義が、本籍遊牧民・・肉食と間歇的な(殺傷を伴う)略奪を旨とする!・・たる皇帝達にいかんともしがたい違和感を与えていたからではないか、というのが私の仮説です。(太田)
(続く)