太田述正コラム#13684(2023.8.23)
<森部豊『唐–東ユーラシアの大帝国』を読む(その12)>(2023.11.18公開)
「ただし、武則天は仏教そのものを否定したわけではない。
彼女は依然として仏教を保護し、そして周王朝を支えるあらたな仏教理論をもとめていったのである。
当時、長安仏教界で勢力があったのは、太宗・高宗時代に庇護された玄奘の唯識<(注25)>教学であった。
(注25)「個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、唯(ただ)、8種類の識(八識)によって成り立っているという大乗仏教の見解の一つである(瑜伽行唯識学派)。ここで、8種類の識とは、五種の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識を指す。よって、これら8種の識は総体として、ある個人の広範な表象、認識行為を内含し、あらゆる意識状態やそれらと相互に影響を与え合うその個人の無意識の領域をも内含する。
あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な存在であり客観的な存在ではない。それら諸存在は無常であり、時には生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在は「空」であり、実体のないものである(諸法空相)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
「唯識論・・・ではその識(心の作用)も仮のもので夢幻の存在(空)であるとして否定する。ここにおいて唯心論と唯識論は最終的に異なる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E5%BF%83%E8%AB%96
しかし、唐を否定した武則天にとって、唯識教学にたよることはできない。
彼女がもとめたあらたなよりどころは華厳<(注26)>教学であり、それを集大成した僧侶が法蔵<(注27)>(ほうぞう)(643~712年)である。
(注26)「華厳宗・・・は、・・・仏になることを目的とするのではなく、最初から仏の立場に自分を置いて考え、行動することを求めるのが華厳思想である<ので、>・・・唯識とは逆<であり、また、>・・・仏性についての考え方では天台宗が性具説を説き凡夫が次第に修行によって自らに十分備わっていない外来の仏性に救いとられて、目覚めさせられて行くと説くのに対し、華厳宗では性起説を説き、もともと衆生には円満な仏性が備わっているという如来蔵の考え方をとり、それが信じられず自覚しようとしないので迷うのだと考える。・・・
天台宗の教相判釈(経典の内容を分析し、成立の順序や内容の高低を判定する)・五時八教の教判(<隋の>天台大師智顗による)では、華厳経は最初に説かれ、仏のさとったままの言葉を記したもので、凡夫には理解しがたいものとしている。・・・
対して唐の法蔵は『華厳五教章』において、五教十宗判の教相判釈を行い、華厳の教えを最高としている。・・・
華厳宗の本尊は、歴史上の仏を超えた絶対的な毘盧遮那仏<である。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E5%8E%B3%E5%AE%97
(注27)644~712年。「<支那>華厳宗の第三祖とされる僧。・・・智儼(ちごん)に華厳経を学び、咸亨元年(670年)勅命を受けて出家した。武則天の庇護を受けて華厳教学を宣揚し、華厳教学の実質的な大成者となった。また、実叉難陀の華厳経80巻の訳出や義浄の訳経などに関与した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%94%B5_(%E5%94%90)
⇒人間主義(悟っていること)が人の本性であるという「事実」(コラム#省略)を前提とすれば、理論的には法蔵が正しく、智顗は間違っているわけですが、支那には悟り・・本性の回復・・の自力方法論たるヴィパサナー瞑想<(←その直後に私見変更(太田))>が伝わることがなかったということを踏まえれば、法華経には華厳経にはないところの、自力方法論たる人間主義的実践が記されている以上、現実的には智顗が正しく、法蔵は間違っていると言うべきでしょう。(太田)
法蔵の俗姓は康(こう)といい、その祖先はソグディアナのサマルカンドにいたというから、明らかにソグド人の血をひいている。・・・
彼の講義を受けた武則天は華厳教学を庇護し、自分を支えるイデオロギーとして利用していく。
それは法蔵の説く華厳の教えが、コスモポリタン的性格をもっていただけでなく、その中に玄奘の唯識の教えをとりこんだ強力な仏教思想だったからである。
こうして法蔵は、ほぼ一生を武則天につかえ、彼女のブレインとしての役割をはたすことになる。 武則天の仏教保護は、多くの訳経僧を支援したことからもうかがえる。・・・
この時代の仏典翻訳事業に参加した訳経僧の多くが、コータンやトハリスタンなど中央アジア出身の「胡人」であった<。>・・・
ところ<が、>武則天・・・は、しだいに道教へ信仰を傾斜していったともいえる。」(117~118、120)
⇒その道教への傾斜からも推測できるように、武則天が、智顗や法蔵の仏教理論に真の関心などなかったと見るべきであり、「洛陽郊外の龍門山奉先寺にある高さ17mの盧舎那仏の石像は、高宗の発願で造営されたが、像の容貌は武則天がモデルといわれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%89%87%E5%A4%A9 前掲
ところ、ここからも、自身も鮮卑系であった武則天が、「雲崗石窟の石窟群の中で最も早くに作られたのは第16窟から第20窟までの5窟であり、これらは曇曜(どんこう)五窟という名で呼ばれている。・・・曇曜五窟はいずれも楕円形の平面にドーム天井を持つ構造を持ち、それら一つ一つに15m前後の巨大な仏像が彫られている。これらは全て北魏の歴代皇帝を模したものであるとされ、第16窟から初代皇帝道武帝、二代皇帝明元帝、三代皇帝太武帝、四代皇帝南安王、五代皇帝文成帝であると言われている。これらは、皇帝は即ち如来であるとされる、皇帝の権力と仏教が結びついた北魏仏教の性格を顕著に表したものと言えるだろう。・・・<このうちの>北魏の第三皇帝である太武帝は、道教を保護していた反面、廃仏令によって仏教を弾圧していた。」
http://kankodori.net/worldheritage/data/1039/index.html
という、鮮卑系王朝による皮相的な仏教の理解と利用、という「伝統」に忠実であったことを端的に示していると言えるでしょう。(太田)
(続く)