太田述正コラム#13688(2023.8.25)
<森部豊『唐–東ユーラシアの大帝国』を読む(その14)>(2023.11.20公開)
「高宗期のはじめの10年間で、唐朝は間接的・名目的であるにしても、西トルキスタンまで支配に組みこんだ。
しかし、その体制を脅かす勢力があらわれる。
西突厥の遺民とチベット帝国である。・・・
統一帝国としての体裁をととのえたソンツェン・ガムポ<(注32)>の死後(649年)、チベット帝国の宰相ガル一族が政治の実権をにぎり、唐朝と対決しはじめていた。
(注32)ソンツェン・ガンポ(617~649/650年)。「チベット初の統一王国(吐蕃)を樹立し[3]、チベットに初めて仏教を導入した人物として知られる。・・・
宰相のガル・トンツェン(ガル・トンツェンユルスン)の補佐を受けてチベット高原の大部分を支配下に置き、吐谷渾・パイラン(白蘭)・タングートなどの周辺の部族に勝利を収める。640年ごろまでに吐蕃は、北東はツァイダム地方、東は松州、西はラダック、南はヒマラヤ山脈に支配領域を広げた。
彼の事績は早い時代から伝説化され、転輪王にも擬せられた。唐国は吐蕃に貢女と朝貢をした。唐王室より公主(皇族の女性)を貢女としてもらい、・・・和平を結ぶこともあったが、以後積極的に唐国を征服する活動をした。・・・
638年、ソンツェン・ガンポの子のグンソン・グンツェンが吐蕃の王に即位する。唐は吐蕃の要求を受け入れ、640年(もしくは641年)にソンツェン・ガンポの妾として太宗の娘文成公主が貢女された。・・・
ソンツェン・ガンポの崩御後、グンソン・グンツェンと文成公主の子であるマンソン・マンツェンが王となったが、宰相のガル・トンツェンが実権を握っていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%83%84%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%9D
「文成公主<(623?~680年)>・・・は、ソンツェン・ガンポの息子であり当時王位にあったグンソン・グンツェン(在位:641年 – 643年)の妻となった。642年に王子マンソン・マンツェンをもうけたが、その翌年にグンソン・グンツェン王は落馬が原因で急死した。・・・
夫の死から3年後、文成公主はグンソン・グンツェン王の死によって再び王位についたソンツェン・ガンポ王と再婚した。再婚までに3年の期間があるのは、喪に服していたためと考えられる。
ソンツェン・ガンポ王との結婚生活は649年の王の死によって、わずか3年で終わりを迎え、マンソン・マンツェン(在位:650年 – 676年)が即位した。マンソン・マンツェンの死後、680年頃に逝去。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%88%90%E5%85%AC%E4%B8%BB
「唐太宗の娘<ということになっているが、>・・・唐はこの公主の存在にあまり拘束されなかったので、その素姓は疑わしい。」
https://kotobank.jp/word/%E6%96%87%E6%88%90%E5%85%AC%E4%B8%BB-128552
⇒文成公主の素性が不詳だというのは面白いですね。(太田)
ガル<(注33)>の指揮のもと、チベット帝国は西突厥の遺民と手を組んで、唐の西域経営の軍事拠点である安西四鎮を攻撃してきた。
(注33)ガル・トンツェンユルスン(590~667年)。「ツェンポ(王)のソンツェン・ガンポ、マンソン・マンツェンの2代を補佐し政治を取り仕切った。漢文史料は禄東賛、論東賛、大論東賛などを名前に付けた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%84%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%A6%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%83%B3
このため唐は安西四鎮を放棄し、安西都護府<(注34)>も西州へしりぞいた。・・・
(注34)安西大都護府・・・は、・・・唐代に西州(現在のトルファン市)および亀茲(現在のクチャ市)に置かれた行政区画。管轄範囲はタリム盆地を中心に東西トルキスタンにおよぶ。北には北庭大都護府がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%A5%BF%E5%A4%A7%E9%83%BD%E8%AD%B7%E5%BA%9C
<しかし、>7世紀末、唐朝軍がチベット帝国軍をやぶり、安西四鎮を復活させ、また安西都護府亀茲におくことに成功した(692年)。・・・
一方、チベット帝国では、この敗戦をきっかけにガル一族が没落し、政治の実権をふたたびツェンポ(ディドゥソン<(注35)>王。在位676~704年)がとりもどすことになった。
(注35)ティ・ドゥーソン(676~704年)。「マンソン・マンツェン<が>父<。>・・・マンソン・マンツェンの崩御により僅か1歳で即位し、宰相(ロンチェン・・・)ガル・ティンリンツェンジュ、実母ブロ・サ・ティマル<が>補佐<し>た。678年、唐の中書令、李敬玄が18万の兵で青海へ侵攻してきたが、ティンリンはこれを撃退した。
699年、王は東部に割拠して国政を王と二分していたガル一族の粛清を目論み、軍を率いてガル氏の拠点を襲撃し、宰相のティンリンを自殺に追い込んだ。704年、自らがジャンに侵攻し、討死した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B3
チベットは「周」と旧吐谷渾の領有をめぐって対立する一方、和親ももとめた。
その結果、武則天は公主をおくり婚姻をむすぶことをゆるしたが、ディドゥソン王が戦没したため、この約束は次の中宗のときにもちこされることとなった。」(131)
⇒騎乗遊牧民の国とも言えない、しかも、人口がそれほどあったとも思えない吐蕃に唐/周が振り回され続けた感が否めませんが、これもまた、不思議なことです。(太田)
(続く)