太田述正コラム#13690(2023.8.26)
<森部豊『唐–東ユーラシアの大帝国』を読む(その15)>(2023.11.21公開)
「・・・武則天<が>退位においこ<まれた>とき、・・・武三思(武則天の甥)ら<は殺されなかった。>・・・
かつて高宗<は>武皇后を廃そうとし、宰相の上官儀に相談した<が、>・・・この計画は失敗し、上官儀は獄にくだされ命をおとし、その子も殺された。
そのときまだ赤ん坊だったのが、上官儀の孫娘の婉自<(注36)>である。
婉児は後宮にいれられ宮中奴隷になったが、祖父の文才をひきついだものか、成長するや、詩や文章に才能を発揮した。
彼女をみいだした武則天は、上官婉児を政務に参与させていた。
復位した中宗も彼女に詔書の起草をつかさどらせていたが、ついには・・・寵愛するようになる。
ところが、なんと武三思は、この上官婉児と男女の関係になってまんまと後宮に入りこみ、韋后と知遇をえることに成功する。
さらに武三思は・・・宰相・・・がうける命令は武三思から出るものと<し>たという。
あげくのはて、武三思は韋后とも体の関係をむすんでしまう。・・・
当時の皇太子は中宗の第三子の李重俊(りちょうしゅん)だったが、韋后の子ではなかった。
そのため韋后は皇太子をにくみ、また武三思も皇太子をきらっていた。
安楽公主などは夫の武崇訓とともに皇太子を奴隷よばわりし、彼を排して彼女自身が皇太女になろうとするありさまであった。
しだいにおいつめられた重俊は、・・・クーデタをおこした。・・・
長安城内にすんでいた武三思父子を殺すと宮城にとってかえし<たが、>・・・中宗は韋后、安楽公主、上官・・・婉児・・・とともに・・・難をさけ・・・クーデタは失敗におわった(707年)。・・・
この事件で、武三思は殺されたが、韋后、公主らは生きのこ<った。>・・・
<やがて、>彼女たちは策謀し、毒をいれたモチを中宗にたべさせ、ついに殺してしまった。・・・
このとき、韋后、安楽公主の前に武則天の娘の太平公主が立ちはだかった。
彼女は、上官<婉児>とともに中宗の遺言書をつくり、16歳だった中宗の第四個の重茂(ちょうも)を皇太子にまつりあげた。・・・
さらに中宗の弟の相王韋后、安楽公主(りたん)<(睿宗)>を政務に加え、韋后らの動きを牽制しようとした。
しかし、韋后一派は李旦をしりぞけて李重茂を皇帝敏(諡は殤帝)、韋氏は皇太后として朝廷に君臨した。
韋后のねらいは、太平公主と李旦をはじめとする皇室の李氏一族を排除し、革命をおこすことにあった。
これに対し、李旦の子である李隆基が立ちあがり、太平公主らとともにクーデタ<を起し、>・・・韋后と安楽公主は殺され<た。>・・・
その後、太平公主が主導し、49歳の李旦を皇帝に即位させた。・・・
李隆基は皇太子となるが、・・・太平公主・・・は、着々と政権奪取の準備をすすめ、生きのかかった官僚を要職につけていった。
一方、傀儡皇帝を自覚していた睿宗は、在位2年で李隆基に譲位してしまう。
玄宗である(在位712~756年)。
しかし、これをだまって見逃す太平公主ではない。
彼女は、・・・玄宗の権限を弱め・・・<、しかも、>クーデタをおこそうとした。
しかしこの計画は事前にもれ、玄宗<は、>・・・公主派の主だったものをつぎつぎと殺し、政権を掌握した。
太平公主は<一旦>逃れたが、3日後、都へもどり、自宅において死を賜った(713年)。」(138~143)
⇒東アジアにおいては例外的に、ほぼ同じ時代の日本においても、女性天皇が輩出する等、女性の活躍が目覚ましかったけれど、似ているのはそれだけであり、唐の王室の乱れ方と権力闘争の余りの凄まじさには言葉を失います。(太田)
(続く)