太田述正コラム#13692(2023.8.27)
<森部豊『唐–東ユーラシアの大帝国』を読む(その16)>(2023.11.22公開)
「<その後、時間が経ち、>宰相となったのが、陽国忠<(注37)>(ようこくちゅう)である。
(注37)?~756年。「楊貴妃と曾祖父の楊令本が同じで又従兄にあたる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E5%9B%BD%E5%BF%A0
彼の政界への進出は、一族である楊貴妃<(注38)>と切りはなすことはできない。
(注38)楊玉環(719~756年)。「玄宗皇帝が寵愛しすぎたために安史の乱を引き起こしたと伝えられたため、傾国の美女と呼ばれている。世界三大美人の一人で古代<支那>四大美人(西施・王昭君・貂蝉・楊貴妃)の一人とされている。・・・また、才知があり琵琶を始めとした音楽や舞踊に多大な才能を有していたことでも知られている。・・・
現代では、楊貴妃自身は政治にあまり介入しておらず、土木工事など大規模な贅沢、他の后妃への迫害などほとんどなく、玄宗や楊国忠ら一族との連帯責任以外はあまり問えないと評されることが多い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E8%B2%B4%E5%A6%83
楊貴妃は玄宗の晩年のパートナーとして有名だが、もとは玄宗が寵愛した武恵妃の子、寿王瑁<(ぼう)>の妃だった。
しかし、武恵妃をうしない悲嘆にくれていた玄宗の耳に、彼女の美しさをふきこむ者がいた。・・・
いったい、唐朝前期の皇帝は、高宗にしろ、この玄宗にしろ、人妻を自分のものにしてしまうのだが、これはどうしたことなのだろうか。
後世の儒教の教養をもつ知識人たちからは非難をあびることになるのだが、当時の宮廷では、これをゆるす雰囲気があったようである。・・・
玄宗が政治から逃避したのは、楊貴妃への傾倒だけではなかった。
彼の道教<(注37)>趣味もその一つといえる。
(注37)「神仙思想<は、>・・・古代<支那>において,不老長寿の人間,いわゆる仙人の実在を信じて,みずからも仙術によって仙人たらんことを願った思想。前4世紀頃から,身体に羽が生えていて空中を自由に飛行できる人が南遠の地や高山に住んでいるとか,現在の渤海湾の沖遠くに浮ぶ蓬莱などの三神山に長生不死の人とその薬があるとかいう説があり,そのような人々が仙と呼ばれた。仙人になるには,体操による訓練か薬かのどちらかが選ばれ,両方の研究は唐代以後にも続けられ,その過程で<支那>の医学や化学が発達した。この神仙思想が道家思想や五行説と結びついて成立した宗教が,中国3大宗教の一つとされる道教である。・・・
<この>神仙思想<は、>・・・地上はるか遠くに楽園のあることが説かれた説話時代,方士 (ほうし) がでて神仙と交通し,不死の薬が作られた秦・漢代,道教による体系化がなされた魏・晋代の最隆盛期の3期を経過した。」
https://kotobank.jp/word/%E7%A5%9E%E4%BB%99%E6%80%9D%E6%83%B3-82098
「道教とは、道(タオ)を説き不老長寿を究極の理想とする<支那>でうまれた宗教です。老子をその祖として崇め、神仙思想や風水や星宿、易学をはじめとする古代の思想や信仰・神話、そして仏教をも取り込みながら発展し続けてきました。現代も<支那>の人生観や世界観の根幹をなし、東アジアの思想や文化、芸術のベースとなっています。」
https://www.osaka-art-museum.jp/sp_evt/past_21_dokyo_index
「道教の日本への伝来は、儒教・仏教が総合的な文化体系として日本に大きな影響を与えたのに比べると、組織的な形で流入したわけではない。実際、遣唐使が玄宗に謁見した際、道士を紹介されたが日本は道教を尊ばないという理由で拒否したことがあり、遣唐使などの正式な形で道士が日本に渡来したことはない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%95%99
道教は、また「玄教」といい、道教の学問を「玄学」という。
玄宗という廟号は、彼が熱心な道教の信者だったことを意味している。」(176、179)
⇒道教なんてものは、迷信に立脚したところの、個人のエゴの充足を肯定し追求させる邪教でしかないのであって、「道先仏後」における仏教もまた、鎮護国家、個人の輪廻脱却、といったものを目指す、矮小化、歪曲化、された、迷信的なものに過ぎなかった、と、見てよさそうです。
恐らく、隋代、唐代の日本の指導層の道教観も似たようなものであった、と、思われます。
もちろん、そんな道教がはぶりをきかす、隋や唐が、外道の国、修羅の国、であることなど、厩戸皇子から始まるところの、日本の、遣隋使/遣唐使派遣決定者達には周知のことであったはずなのに、にもかかわらず、彼らが、唐に遣隋使/遣唐使を送り続けた真意が那辺にあったのか、に、我々は思いを致すべきなのです。(太田)
(続く)