太田述正コラム#13694(2023.8.28)
<森部豊『唐–東ユーラシアの大帝国』を読む(その17)>(2023.11.23公開)
「・・・玄宗が政治への情熱をうしなったころ、モンゴリアでは大きな事件、いや「革命」がおきていた。
突厥第二帝国の滅亡とウイグル<(注38)>帝国の誕生である。」(183)
(注38)「「高車(こうしゃ)」とは4~6世紀の<支那>北朝におけるテュルク系遊牧民の総称で、彼らが高大な車輪のついた轀車(おんしゃ:荷車)を用いたことに由来する。その一部族である袁紇(ウイグル)部は、モンゴル高原をめぐって拓跋部の代国や北魏と争っていたが、4世紀末から5世紀初頭に柔然可汗国に従属した。
390年、袁紇部は北魏の道武帝の北伐で大敗を喫し、429年に北魏が漠北へ遠征して柔然を打ち破ると、袁紇部を含む高車諸部族は北魏に服属して漠南へ移住させられた。
一時期、高車諸部は孝文帝の南征に従軍することに反対し、袁紇樹者を主(あるじ)に推戴して北魏に対して反旗を翻したが、のちにまた北魏に降った。
6世紀~7世紀、高車は鉄勒(てつろく)と呼ばれるようになり、袁紇(ウイグル)部も<支那>史書で烏護・烏紇・韋紇などと記され、やがて迴紇・回紇と表記されるようになる。当時、鉄勒諸部は突厥可汗国に属し最大の構成民族であったが、趨勢に応じて叛服を繰り返していた。
隋代に42部を数えた鉄勒諸部(アルタイ以西に31部・勝兵88,000、以東に11部・勝兵20,000)は、唐代に至ると徐々に東へ移動・集合(15部・勝兵200,000)、その中でも回紇(ウイグル)部は特に強盛となってモンゴル高原の覇権を薛延陀(せつえんだ)部と争った。
629年に部族長の吐迷度は薛延陀部を破り、鉄勒の盟主となった。646年には唐に帰順し、回紇部は瀚海都督府とされ、吐迷度は懐化大将軍を拝命し、瀚海都督となった。
682年、東突厥が再興(第二突厥可汗国)すると回紇(ウイグル)部は再び屈従を余儀なくされたものの、734年に東突厥の毘伽可汗(ビルゲ・カガン)が毒殺されると、バシュミル部、カルルク部らとともに東突厥へ度々攻撃を仕掛け、745年に回紇(ウイグル)部の可汗(カガン、君主)となった骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ)が唐と組んで最後の東突厥可汗である白眉可汗を殺して東突厥可汗国を滅ぼした。
744年、骨力裴羅(クトゥルグ・ボイラ)は回鶻可汗国(ウイグル可汗国、ウイグル帝国)を建国する(744年 – 840年)。回鶻(ウイグル)可汗国は東突厥の旧領を支配し、新たなモンゴル高原の支配者となった。
以後、彼ら回鶻(ウイグル)の筆頭氏族である薬羅葛(ヤグラカル)氏によって可汗位が継承された。経済面では唐との絹馬貿易や東ローマ帝国とのシルクロード交易によって莫大な利益を上げた。
755年に唐で起きた安史の乱では、唐の要請により回鶻(ウイグル)軍が反乱を鎮め、763年に終結することができた。
[乱の経過の中で、ウイグルは一時、反乱軍と協力して唐を倒そうとする動きも見せており、もし反乱軍とウイグルの同盟が強固になっていれば、唐はその時点で滅亡し、後の遼や元のような「征服王朝」が早くも成立したかも知れない状況であった。現実にはそうはならなかったが、安史の乱は次の10世紀にユーラシアに一斉に登場する遊牧民が農耕民を支配する中央ユーラシア型国家(征服王朝)の先駆的な動きだったと捕らえることができる。<(森安孝夫『シルクロードと唐帝国』に拠っている(太田))>
https://www.y-history.net/appendix/wh0302-078.html ]
唐が安史の乱の勃発により西域の経営から手を引くと、回鶻(ウイグル)は西域を巡って吐蕃と数十年に渡る戦いを繰り広げた。この北庭争奪戦は792年まで続くが、最終的に回鶻(ウイグル)軍は北庭を奪還し吐蕃に勝利した。トルファン盆地とタリム盆地北部が回鶻(ウイグル)の領国となった。
なお懐信可汗(在位:795年 – 805年)の代にマニ教が国教化され、世界史上唯一となるマニ教国家が誕生した。
[安史の乱で唐を助け、762年に洛陽を解放したウイグル王牟羽(ぼうう)可汗はマニ教に改宗し保護した。反乱の鎮圧に功のあるウイグル汗の後ろ盾もあり、マニ教は中国全土に広がることとなった。768年にはウイグル人のために長安にマニ教寺院の大雲光明寺が建立された。牟羽可汗はマニ教を保護することで、中央アジアから中国にかけて広く活動しているソグド人の商業活動や軍事力を支配下におこうと考えたものと思われる。牟羽可汗は反対派のクーデタで殺害されたが、その後、ウイグルではマニ教が復興し、国教となっ<たものだ。>(上掲)]
840年、回鶻(ウイグル)可汗国は内乱とキルギス族の侵攻を受けて崩壊した。このときウイグル人はモンゴル高原から別の地域へ拡散し、唐の北方に移住した集団はのちに元代のオングートとなり、西の天山方面のカルルク(葛邏禄)へ移った一派は、後にテュルク系初のイスラーム王朝であるカラハン朝となり<※>、甘粛に移った一派はのちの甘州ウイグル王国となり、。東部天山のビシュバリク(北庭)、カラシャール(焉耆)、トゥルファン(高昌)に移った一派は天山ウイグル王国となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%AB
※「中央アジアに移動して定住生活を送るようになり、それによって中央アジアのトルコ化が進んだので、彼らが定住した地域をトルキスタンというようになった。東トルキスタン(タリム盆地)のウイグル人はイスラーム化し、現在の中<共>の新疆ウイグル自治区の主要住民となっている。」
https://www.y-history.net/appendix/wh0302-078.html 前掲
⇒「注38」中に登場する森安孝夫(1948年~)は、東大文(東洋史学)卒、同大修士、博士課程単位取得退学、金沢大、阪大、同大博士(文学)、同大教授、名誉教授、近大特任教授、神戸外大客員教授、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E5%AE%89%E5%AD%9D%E5%A4%AB
という人物であり、その説が気になるので、手厳しい読者コメントも多いけれど、『シルクロードと唐帝国』を読んでみるつもりです。)(太田)
(続く)