太田述正コラム#2767(2008.9.2)
<読者によるコラム:角田忠信教授と日本人論>(2008.10.22公開)
(これは、バグってハニーさんによるコラムです。)
太田コラム#2533では太田さんが角田教授の右脳/左脳論を援用してライトの言説を擁護していたのですが、恥ずかしながら角田教授の名前を聞いたことがなかったので、調べてみました。
学術論文で検索をかけてみましたが、この方、英語論文をほとんど書いてないですね。それで、「日本人の脳」という主要な業績については、一応英訳されてはいるものの、学術論文におけるこの本の引用回数は非常に少ないです(両手で数えられるくらい)。学術雑誌に載った論文ではなくて一般向けに書かれた著書なので引用されにくいのでしょう。角田教授は日本人を主な相手に研究を発表してきた、いわば「内弁慶」であって、この業界ではほとんど知られていない、つまり彼の実験を追試して結果を再確認した人も反駁した人もほとんどいない、という感じです。今では彼の用いた手法はほとんど廃れていて(両耳に対する音刺激に対する脳幹の反応の違いを調べるという手法は当時もほとんど彼の独占状態にあったようですが)、今は機能的MRIなど脳の機能イメージングが全盛の時代です。実際、表意文字である漢字と表音文字であるアルファベットでは用いられる脳の部位が違う(中国人と西洋人との比較)、といった研究は行われています。
角田教授の著作を否定的に引用した論文の中では、彼には言語学のバックグラウンドがないことを問題視して、日本語やポリネシア語に関して初歩的な誤解をしているという手続き的な間違い(しかしながら、彼の研究がまったく無意味である可能性も)を指摘しているものがありました。(たとえば、
Journal of Japanese Studies, Vol. 5, No. 2 (Summer, 1979), pp. 439-450
に載った書評に添えられた編集部による注釈。)
肯定的な引用では、Nature誌に掲載された柴谷篤弘オーストラリア連邦科学産業研究機構上級主任研究員(当時、専門は分子生物学)による「編集者への書状(Correspondence、通常の論文の体裁をとらない、短い意見表明)」がありました。
Nature 299, 102 (09 September 1982)
Natureに掲載された別の論文で日米欧の子ども達のIQ比較の結果日本の子どものIQが高いことが示されたのですが、柴谷氏はそれは著者達が指摘したような書き言葉の影響ではなく話し言葉の影響であると指摘し、角田教授の脳の機能局在論を援用していました。
それで、おもしろかったのは、英文論文の中で角田教授の研究が引用される場合、大半はその生理学的知見に言及するのではなく日本人論という文脈の中で引用されていた、ということです。つまり、脳生理学などの生物学雑誌ではなく日本研究など社会学の雑誌の方が角田教授はよく引用されているのです。角田教授の著作は日本人論の典型なのですね。
それで、日本人論についても調べてみたのですが、英語版Wikipediaはそのものずばり「Nihonjinron」なる項目を見つけました。
http://en.wikipedia.org/wiki/Nihonjinron
ちなみに、例に漏れず、英語版のほうが日本語版よりも記述も典拠もずっと充実していると言う情けない状況です(角田教授の「日本人の脳」は英語版だけで文献リストに載っている)。
それでこのWikipediaの項目によると、日本人論とは次の特徴をおおむね備えているんだそうです。
・特異性:日本、日本人、日本文化、日本のものの考え方、社会行動、言語などなどは独特である。
・この日本人の特異性は特色ある日本人の特徴や民族性に根ざしている。
・時代を超越した性質:日本人の特質はあらゆる時代を通して変わっていない。さらに、しばしば当然視されることであるが、有史以前に生まれた。
・均質性:日本人は民族、人種、民族的共同体として一様である。
こういう議論は、当たり前ですが、欧米の人々には大変不評です。角田教授の「日本人の脳」も日本人論として英文論文で取り上げられたときは 100%否定的な取り上げ方でした。以下に一例を示して、本コラムを閉じたいと思います。「国家の品格」という、一種の日本人論を著した藤原正彦氏に、英フィナンシャル・タイムズ誌記者がインタビューしたときの記事なのですが、その中で藤原氏が角田教授の右脳/左脳論を持ち出したときの記者の反応です。
http://news.goo.ne.jp/article/ft/nation/ft-20070323-01.html
たとえば本の中で藤原氏は、日本を訪れたアメリカの大学教授が虫の音を耳にして、「あのノイズはなんだ」と言ったと書いている。虫の音を雑音扱いされて、藤原氏はあぜんとしている。虫の音は美しい音色だと、日本人なら誰でも分かるのに、この大学教授には分からないのか? 「なんでこんな奴らに戦争で負けたんだろう」と思った、と藤原氏はそう書いている。
「虫の音を聴くと、私たちは冬も間近な秋の悲しみを聴く。夏は終わってしまった。日本人なら誰でも感じることだ。そして同時に私たちはもののあわれを感じる。短く儚い人の一生のあわれを感じるのです」
こういう藤原氏に私は反論する。日本人が聞き取るこの「音楽」は当然ながら、教養として教わり作られた感覚のはずだ。確かに日本で虫の音は、「もののあわれ」を象徴する。あっという間にはかなく散る桜の花と同じだ(ちなみに藤原氏は、欧米人が肉厚な花びらのバラを好むのに対して、薄く儚い桜花を好む日本人の感覚を対比している)。しかし日本人が、虫の音や桜の花びらに「もののあわれ」を感じるのは、あまたの詩人や歌人や哲学者たちにそう感じるよう教わってきたからではないか? それはたとえば、ボールがクリケットバットあたる音を聞いても、一般的な日本人はただ「ボールが木のバットにあたる音」としか思わないだろうが、イギリス人にばそれは「夏」と「村の緑地」を意味する音なのだ、ということと同じではないか?
藤原氏は私の言うことにも一理あるとは認めてくれるが、結局のところは、意見を撤回するつもりはない。「ある東京の大学の教授(註:角田教授のこと)が電子器具を使って実験した結果、日本人は虫の音を聞くのに右脳を使うが、欧米人は左脳で聞いているので、日本人は虫の音を音楽として聴き取るのだと証明した」と藤原氏は言う。
これはいわゆる「日本人論」そのものだ。しかし藤原氏は日本と日本的なものに高い誇りを抱く一方で、英国についても実に温かい言葉をかけてくれる。英国は肉厚なバラと論理とバカでかいマグカップの国だが、そんな国でも、藤原氏はなかなか気に入ってくれているのではないか?
とても好きだ、と藤原氏は言う。英国は残酷な歴史をもつが、それでも好きな国だと。「20世紀になって、ドイツとアメリカはイギリスに追いつき、追い越してしまった。経済が下向きになるに伴い、イギリスの人々は、あれほどの金と名声があっても決して幸せではなかったと気づいた。だからこそあなたの国の経済は、ずっと停滞したままなんです」と藤原氏は、ゴードン・ブラウン英財務相の逆鱗に触れるようなことを言う。「経済停滞が続いても、英国人は慌てなかった。だから英国は偉大なんです。日本は英国から学ぶべきだ。いかに優雅にエレガントに衰退するか。いかに優美に朽ちていくか」
<太田>
私は、以前(コラム#1600で)藤原正彦氏の「国家の品格」を取り上げて、同氏の無知蒙昧ぶりを厳しく批判しています。
お示しの記事は私も読んでいますが、ファイナンシャルタイムスがこんな藤原氏・・数学者としての藤原氏ではありません。念のため。・・を、食事をしながら有名人にインタビューするという定評ある欄で取り上げたことをなげかわしく思っています。
なお、日本人の手によるこれまでの日本人論一般に批判的であることを、以前(コラム#40で記していることを申し添えます。
読者によるコラム:角田忠信教授と日本人論
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