太田述正コラム#13702(2023.9.1)
<森部豊『唐–東ユーラシアの大帝国』を読む(その21)>(2023.11.27公開)

 「・・・徳宗のあとは、長男で皇太子・・・がついだ。・・・
 順宗<(注47)>(在位805年正月26日~8月4日)という。・・・

 (注47)761~806年。「柳宗元<ら>・・・を登用、徳宗以来続いていた官吏腐敗を一新し、地方<で>の財源建て直し、宦官からの兵権を取り返そうとするなどの永貞の革新の政策を行なっている。
 だが、即位して間もなく脳溢血に倒れ、言語障害の後遺症を残した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%86%E5%AE%97_(%E5%94%90)
 「柳宗元<(773~819年)は、>・・・王維や孟浩然らとともに自然詩人として名を馳せた。散文の分野では、韓愈とともに・・・古文復興運動を実践し、唐宋八大家の一人に数えられる。・・・
 政治家としてはたしかに不遇であったが、そのほとんどが左遷以後にものされることとなった彼の作品を見ると、政治上の挫折がかえって文学者としての大成を促したのではないかとは、韓愈の「柳子厚墓誌銘」などにあるように、しばしば指摘されるところである。・・・
 柳宗元は文学者・政治家であるのと同時に思想家・法家・無神論者・唯物論者・合理主義者とも呼ばれる。無神論者にして仏教の篤い庇護者でもあり、儒教・諸子百家・仏教に普遍する第四の道を求めたという特質がある。
 彼の政治スローガンとして「生人〈人民〉を貴しと為し、社稷(しゃしょく)〈国家〉は之に次ぐ」という孟子の名言がある。この、国家よりも人民を優先すべきという彼の思想は無神論<、>や<、>王権神授説の否定にも繋がる。
 天命思想を嫌った宗元は「聖人の意は神・天に在らず、人に在り」というように天上の問題と地上の問題を断絶することに真意を置いた。
 彼は「天意天明を認める限り、政治の責任は任命者たる天に帰す。しかし、天は上空の黒い物体にして民意を解する存在でも、意志を有する存在でもない以上、政治の責任は宙に浮いたままである。実際には皇帝の専制や宦官の横暴を容すことになる」と考え、苦しむのは民であるため、政治の責任を天の意に置くべきではないとした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E5%AE%97%E5%85%83

 彼の改革・・「永貞革新」とよばれる・・をにがにがしく思っていた宦官と徳宗朝時代の元老や旧臣らは、順宗が病気であることを理由に皇太子に政務をまかせ、ついで譲位させることに成功した。
 順宗の在位はわずか6か月余りという短さだった。・・・
 順宗は退位のあと、わずか五か月後に崩御する。
 宦官の手がおよんだとみられるが、・・・今では確かめることはできない。・・・
 順宗のあとは皇太子・・・がついだが、・・・憲宗<(注48)>(在位805~820年)という。」(235、238~239)

 (注48)778~820年。「対藩鎮勢力の施策としては、儒者の臣を藩帥に任命し、監査任務を主とする監軍には宦官を配し、節度使勢力の動静を監視させる制度を開始した。さらに・・・軍備を拡張した禁軍を積極的に活用した結果、唐王朝に反抗的であった河朔三鎮<(後出)>も服従を誓い、衰退した唐は一時的な中興を見た。
 だが、太子に立てられた長男の鄧王・李寧(恵昭太子)が19歳で早世すると、憲宗はその悲しみから仏教や道教に耽溺するようになった。法門寺の仏舎利を長安に奉迎することを計画し、韓愈の「論仏骨表」による諫言を退け、莫大な国費を費やして供養を行なった。また丹薬を乱用し宦官を虐待するという精神的異常をきたした。そのため820年に宦官・・・らによって43歳で暗殺された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B2%E5%AE%97_(%E5%94%90)
 「論仏骨表(ろんぶっこつひょう)は、・・・韓愈が、鳳翔法門寺の真身宝塔(阿育王塔)に秘蔵され、30年に一度のご開帳の時に供養すれば国家安泰を得るという仏舎利の伝承を信じた憲宗皇帝に対して諌めるために上った上表文である。
 古文復興運動の先駆となった韓愈の、四六駢儷文を排した名文として、また、<支那>における排仏論を代表する内容として知られている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%96%E4%BB%8F%E9%AA%A8%E8%A1%A8#:~:text=%E8%AB%96%E4%BB%8F%E9%AA%A8%E8%A1%A8%EF%BC%88%E3%82%8D,%E4%B8%8A%E8%A1%A8%E6%96%87%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82

⇒韓愈(注49)の論仏骨表の邦訳(上掲)を読むと、憲宗も、その憲宗を批判する韓愈も、どちらも、余りにも皮相な仏教理解しかしていないことが分かり、空いた口が塞がりません。

 (注49)768~824年。「韓愈は、六朝以来の文章の主流であった四六駢儷文が修辞主義に傾斜する傾向を批判し、秦漢以前の文を範とした達意の文体を提唱し(古文復興運動)、唐宋八大家の第一に数えられている。この運動に共鳴した柳宗元は、韓愈とともに「韓柳」と並称される。
 古文復興運動は、彼の思想の基盤である儒教の復興と表裏をなすものであり、その観点から著された文章として、「原人」「原道」「原性」などが残されている。その排仏論も、六朝から隋唐にかけての崇仏の傾向を斥け、<支那>古来の儒教の地位を回復しようとする、彼の儒教復興の姿勢からきたものであった。・・・
 詩人としては、新奇な語句を多用する難解な詩風が特徴で、平易で通俗的な詩風を特徴とする白居易に対抗する中唐詩壇の一派を形成し、・・・「韓門の弟子」と称する詩人たちを輩出した。
 詩人としてもある程度の名声を持っているが、より有名なのは散文の作家としてであり、<支那>の近い過去千年間の散文の始祖ともされる。・・・
 韓愈は『論仏骨表』を憲宗に奉って極諌した。結果、崇仏皇帝であった憲宗の逆鱗に触れ、潮州刺史に左遷された。
 ・・・820年・・・、憲宗が崩御して穆宗が即位すると、再び召されて国子祭酒に任じられた。その後は兵部侍郎・吏部侍郎を歴任し、長慶4年(824年)に死去した。礼部尚書を追贈された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E6%84%88

 どうやら、二人とも、一冊の仏教経典(の漢訳)も読んでいない、と、見ました。
 そんなニーズがなかったからだと言ってしまうと身も蓋もないけれど、日本の厩戸皇子(コラム#省略)や、元皇太子の真如法親王(コラム#13549)のような、仏教の核心と格闘したところの、王室の有力メンバー、を、支那はただの一人も生み出せなかったわけです。(太田)

(続く)