太田述正コラム#13704(2023.9.2)
<森部豊『唐–東ユーラシアの大帝国』を読む(その22)>(2023.11.28公開)


[唐詩]

一 始めに

 この本も、唐の邦語ウィキペディアも、唐詩そのものを取り上げていないので、ここで触れおく。

 「詩経』・『楚辞』以来、発展した詩は、魏晋南北朝時代の六朝文化において陶淵明などが出現して<支那>文学の最も発展した分野となった。そして<支那>文学史の柱として、「唐詩」・「宋詞」・「元曲」と言われるように、唐の文化の中では詩が他のジャンルを圧倒して質量ともに黄金時代を迎えた。・・・唐詩の隆盛の理由は、科挙の進士科の試験科目に詩の創作が課せられていたからであり、その作家の多くは、六朝時代の特権的貴族階級ではなく進士出身の知識人官僚であった。
 盛唐:玄宗の・・・713年・・・から安史の乱の終了後の765年まで約50年間(ほぼ8世紀前半):代表的詩人には、王維・李白・杜甫がいる。
 中唐:安史の乱終了後(766年)から敬宗の・・・826年・・・まで約60年間(8世紀後半~9世紀初頭):代表的詩人に白居易・韓愈・柳宗元がいる。韓愈と柳宗元は古文復興を提唱した。」
https://www.y-history.net/appendix/wh0302-064_1.html

二 王維

 「生卒年は『旧唐書』によれば699年 – 759年、『新唐書』では701年 – 761年・・・
 府試(科挙の長安で開かれる予備試験)・・・解頭(首席)<、>・・・719年・・・、進士に及第<。>・・・
 <彼>は、・・・唐朝の最盛期である盛唐の高級官僚で、時代を代表する詩人。また、画家・書家・音楽家としての名も馳せた。字は摩詰、最晩年の官職が尚書右丞であったことから王右丞とも呼ばれる。・・・
 同時代の詩人李白が“詩仙”、杜甫が“詩聖”と呼ばれるのに対し、その典雅静謐な詩風から詩仏と呼ばれ、南朝より続く自然詩を大成させた。韋応物・孟浩然・柳宗元と並び、唐の時代を象徴する自然詩人である。とりわけ、王維はその中でも際だった存在である。画についても、“南画の祖”と仰がれている。・・・
 母の崔氏は敬虔な僧の普寂に師事していた仏教徒で、王維はその影響を強く受けながら成長し<、>・・・仏教を信奉し、・・・なまぐさを食べず、派手な服装はしなかったと伝えられる。また、早くして妻を亡くしたが、以後、再婚せず、30年間、独身を貫いた。・・・名の維と字の摩詰とは、『維摩経』の主人公である居士の“維摩詰”の名を分割したものである。・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E7%B6%AD

三 李白

 701~762年。「現在の中<共>における通説では、李白は西域に移住した漢人の家に生まれ、幼少の頃、裕福な商人であった父について、西域から蜀の綿州昌隆県青蓮郷(現在の四川省綿陽市江油市青蓮鎮)に移住したと推測する。・・・
 李白は道教に傾倒しており、放浪中にも各地の道士と交友を深めていて、長安での出仕もこの道士の人脈によるものとされている。さらに朝廷を致仕した744年には・・・正式に道士の資格を得ている。こうした道教への傾倒と神仙への憧れは、李白の作品にも強い影響を及ぼしている。
 李白は「酒仙」とまで呼ばれるように酒を愛したことで知られ、飲酒を礼賛した詩を数多く詠んでいる。・・・
 この時代の人材登用にはすでに科挙が導入されており、唐代の文人のほとんどは科挙に及第するか、及第まではせずとも受験した経歴があるが、李白には科挙を受験した形跡が全く見られない。これは、当時の科挙は商人の子弟および外国人は受験資格がなく、李白がこれに抵触したためであると考えられている。李白本人は官僚として立身する意欲が強く、蜀にいるころから盛んに大官に売り込みを行い仕官を目指したが、ほとんどはうまくいかなかった。」 
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E7%99%BD

四 杜甫

 712~770年。「735年・・・ : 呉・越から洛陽に帰って来て、科挙の進士を受験したが及第せず。747年・・・ : 長安で一芸に通じる者のための試験が行われたが、落第。この試験では杜甫の他に高適や元結らも応じたが、もとより文学の士の政治批判を恐れた宰相李林甫は、尚書省に命じて1人も及第させなかった。・・・
 755年・・・: かねてから左丞相韋見素にたてまつった詩が効果をあらわしたものか、にわかに河西の尉に任じられるが断り、10月右衛率府兵曹参軍に任ぜられる。実際に職に就くのは翌年春頃か。・・・
 765年・・・: 正月に幕府の職務を解くことが許される<。>・・・
 杜甫は当時の士大夫同様、仕官して理想の政治を行いたいという願望から、社会や政治の矛盾を積極的に詩歌の題材として取り上げ、同時代の親友である李白の詩とは対照的な詩風を生み出した。特に自らの困難を世の中全体の問題としてとらえ描<い>・・・た。また「詩史(詩による歴史)」と呼ばれるその叙述姿勢は、後の白居易の諷喩(風諭)詩などに受け継がれてゆく。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%9C%E7%94%AB

五 白居易

 772~846年。「古くより白楽天の呼び名で知られる。・・・
 800年・・・、29歳で科挙の・・・進士科に・・・合格し<、>・・・、制科に35歳で合格。>・・・
 平易暢達を重んじる詩風は一貫して<いる。>・・・
 白居易は仏教徒としても著名であり、晩年は龍門の香山寺に住み、「香山居士」と号した。また、馬祖道一門下の・・・禅僧<ら>と交流があった。・・・
 日本には白居易存命中の・・・838年・・・に当時の大宰少弐であった藤原岳守が唐の商人の荷物から“元白詩集”(元稹と白居易の詩集)を見つけてこれを入手して仁明天皇に献上したところ、褒賞として従五位上に叙せられ、・・・844年・・・には留学僧恵萼により67巻本の『白氏文集』が伝来している。平安文学に多大な影響を与え、その中でも閑適・感傷の詩が受け入れられた。菅原道真の漢詩が白居易と比較されたことや、紫式部が上東門院彰子に教授した(『紫式部日記』より)という事実のほか、当時の文学作品においても、清少納言は『枕草子』にて「文は文集、文選、はかせの申文」と述べ、紫式部は『源氏物語』「桐壺」のほとんど全般にわたり、白居易の「長恨歌」から材を仰いでいることなどからも、当時の貴族社会に広く浸透していたことがうかがえる。白居易自身も日本での自作の評判を知っていたという」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B1%85%E6%98%93 

六 韓愈

 既述。

七 柳宗元

 既述。

⇒同時代たる唐と平安朝は、文明が異なり、また、一方は戦乱が絶えないがもう一方は平和という違いもあったけれど、漢詩と和歌の違いこそあれ、どちらにおいても、官吏の素養として作詩能力が重視されたのは興味深い。
 また、白楽天存命中に、日本の朝廷がちょっとした、韓流ならぬ(白楽天自身を含めた)唐流ブームだったというのも面白い。

 なお、ここに登場した6名中2名は、唐における、仏教を重視した王室関係者や一般仏教徒、とは違って、本格的な仏教徒であったと言えそうだ。(太田)

(続く)