太田述正コラム#13708(2023.9.4)
<森部豊『唐–東ユーラシアの大帝国』を読む(その24)>(2023.11.30公開)

 「・・・穆宗のあとをついだのは長男<で>・・・廟号は敬宗(在位824~828年)という。・・・
 敬宗は心狭く短気な性格で、宦官たちがすこしでも過ちを犯すと、たちまち鞭で打ったため、みな、敬宗を恐れ、うらんでいた。・・・
 敬宗弑逆の首謀者は、下級の宦官たちだった。・・・
 犯人ら<は>斬り殺<され、>・・・敬宗の異母弟・・・<が>即位した。
 廟号は文宗(在位828~840年)という。・・・
 科挙は・・・隋の文帝が南北朝時代以来の門閥勢力を排除するためにつくったシステムだった。<(注53)>

 (注53)「郷試・省試の二段階であった。・・・<なお、>女性、商工業者、俳優、前科者、喪に服しているものなどは受験が許されていなかった。・・・
 <また、>唐では、「最終試験である省試への受験資格を得るために、国子監の管理下にあった六学(国子学、太学、四門学、律学、書学、算学)を卒業するか、地方で行われる郷試に合格する必要があった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E6%8C%99

 しかし、なかなか現実には機能せず、唐の武則天の時代になって、ようやく科挙による人材登用が本格化してきた。
 ・・・唐代では秀才、明経、進士、明法、明書、明算の六科目があった。
 そのうち、秀才は難しかったため、応じる者がいなくなって、初唐の早い段階で廃止された。<(注54)>

 (注54)「はじめは秀才科がもっとも重んじられていたものの、受験者が不合格になるとそれを推薦した地方長官まで処罰されたため、受験者が減少し、やがて廃止された。」(上掲)

⇒秀才科の廃止理由ですが、著者が正しいのかウィキペディア執筆陣が正しいのか?(太田)

 明法は法律、明書は文字学、明算は数学という一芸を試みるもので、評価は高くなかった。
 明経は、儒教の経書に明らか、の意味であるが、試験自体は暗記ものが多かった。
 それに対し、進士は経書の私見に加え、詩と賦という二種類の韻文と、策という散文が課せられた。
 経書につうじているのはあたりまえとされていたので、それではあまり優劣の差がつかない。
 そこで詩文を加えて、そのオールラウンドな才能が試されたのである。
 このため、明経合格者は30歳でも年寄りといわれるほど容易な試験である一方、進士合格者は50歳でも若いといわれるほどの難関だった。
 唐の科挙は、はじめは吏部・・・官僚の人事をつかさどる・・・が担当していた<が、>・・・玄宗の時代、・・・礼部へうつし、・・・試験監督官<も、吏部の時よりも高い地位の>・・・<礼部の>次官・・・<が>つとめることになった。・・・
 <それに伴い、>科挙の性格も今までの任用試験から資格試験へと大きく変わった。
 そのため、科挙に合格した者は官僚になるために、吏部がおこなう私見をあらためて受験することとなった・・・。<(注55)>・・・

 (注55)「吏部試では「宏詞科」もしくは「抜萃科」が課せられ、「身」「言」「書」「判」と呼ばれる四項で審査された。「身」とは、統治者としての威厳をもった風貌をいう。「言」とは、方言の影響のない言葉を使えるか、また官僚としての権威をもった下命を属僚に行えるかという点である。「書」は、能書家かどうか、文字が美しく書けるかという点を問われ、「判」は確実無謬な判決を行えるか、法律・制度を正しく理解しているかということを問うた。そこには貴族政治の名残りが色濃く見られる。」(上掲)

 科挙の合格者たちは、その年の知貢挙・・・科挙の試験監督官・・・を座主とよび、自分たちを門生と称し、師弟関係をむすんだ。
 また同年の合格者同士のつながりも強かった。
 これが唐後半期の朋党を形づくる一つの淵源だった。<(注56)>」(256~257、259~261)

 (注56)「唐代の高官たちは、知貢挙に合格者を「公薦」(公的な推薦)することが許され、受験者の名簿を閲覧する「通榜」も行われている。これは腐敗が入りこむ余地が大きかった。」(上掲)

⇒「『日中比較教育史』(佐藤尚子, 大林正昭)は、・・・<支那が>西欧の学問思想の導入に遅れた・・・理由<として>、科挙による<支那>の学問・教育の硬直化と、江戸期の日本の学問の柔軟性との差を指摘している。」(上掲)ところですが、広く、支那と欧米・日とを比較すれば、軍事教育研究の軽視でしょう。
 支那における武科挙のいい加減さ(コラム#省略)(上掲)がそれを象徴しています。(太田) 

(続く)