太田述正コラム#13710(2023.9.5)
<森部豊『唐–東ユーラシアの大帝国』を読む(その25)>(2023.12.1公開)
「・・・文宗が亡くなると、その弟・・・が・・・皇帝に即位した。
廟号は武宗<(注57)>(在位840~846年)という。・・・
(注57)814~846年。「武宗は冷静沈着で、明晰かつ決断力に富んだ人物であったと・・・伝<わ>る。李徳裕を宰相に登用し、宦官勢力の抑制や中央集権体制の立て直しに努めた。しかし道士である趙帰真を信任し、道教に傾斜するあまり「会昌の廃仏」と称される廃仏令を出している。これが当時の寺院は荘園の大規模保有者でありながら無税とされ、銅の不足に起因する銅銭不足による経済的混乱が見られ、大量の銅を使用し仏像や仏具を製造していた仏教側の問題もあり、純粋な経済政策という評価もある。また当時皇位を争った叔父の李怡(後の宣宗)が身の安全を図るために仏教を利用したことも、仏教攻撃の一因になったとの説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%97_(%E5%94%90)
8世紀半ばより1世紀近くにわたって東ユーラシア世界を唐とともに鼎立した勢力の二つ<、吐蕃とウイグル、>が、9世紀半ばに消滅した。<(注58)>
(注58)「841年、ティツク・デツェン王は大論(宰相)・・・らに絞殺され、その兄弟ラン・ダルマ王が即位する。843年、ラン・ダルマ王は仏教に反対する大論(宰相)・・・に扇動され廃仏令を下し、仏寺や仏像を封鎖破壊し僧に還俗を迫り、反抗する高僧を殺害、経典や文物を焼却した。これに対し仏教を信仰する人々は不満を高まらせた。
842年(846年?)、ラン・ダルマ王は、変装して近づいた仏僧の・・・に胸を矢で射られて暗殺される。
その後、王の<2人の>子・・・による王位継承争い・・・が勃発し国は南北に分裂する。これを見た唐軍はチベットに対し軍を進め安史の乱時に吐蕃が占領した河西,隴右各地を唐に奪回される。851年、沙州(敦煌)で張議潮による民衆軍、帰義軍の反乱が起き吐蕃の駐留軍が追い出される。これによって瓜州,沙州,伊州,粛州等11州が唐に復帰し、唐は張議潮を帰義軍政権の節度使に封じた。869年、吐蕃の地方貴族と平民たちが、支配層に対する叛乱・・・を起こす。877年には叛乱勢力<によって、>・・・吐蕃は滅亡した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%90%E8%95%83
「840年、回鶻(ウイグル)可汗国は内乱とキルギス族の侵攻を受けて崩壊した。このときウイグル人はモンゴル高原から別の地域へ拡散し、唐の北方に移住した集団はのちに元代のオングートとなり、西の天山方面のカルルク(葛邏禄)へ移った一派は、後にテュルク系初のイスラーム王朝であるカラハン朝となり、甘粛に移った一派はのちの甘州ウイグル王国となり、。東部天山のビシュバリク(北庭)、カラシャール(焉耆)、トゥルファン(高昌)に移った一派は天山ウイグル王国となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%AB 前掲
⇒吐蕃の支配層は遊牧民出身であり、唐の時代にどの程度定着民意識が確立していたのかは定かではないのに対し、ウイグルの支配層は遊牧民であり続けたと考えられ(以上、典拠省略)、前者の滅亡は、仏教の定着に伴う必然であったのに対し、後者の滅亡は、国制の脆弱性と支配層の劣化によるものだ、と、私は見ています。(太田)
会昌の廃仏<は、>・・・いわゆる「三武一宗の法難」の一つだが、その規模と徹底ぶりから、北周武帝の廃仏とならんで、その後の中国仏教の性格と命運とを決定づけたといわれる。
・・・実は道教をのぞく、すべての宗教が弾圧の対象となった。・・・
<その結果、>唐代に「三夷教」といわれた「景教(東方キリスト教)」「祆教(ゾロアスター教)」「明教(マニ教)」は中国本土から姿を消し、あるいは福建で、またあるいはモンゴルの草原でのこっていくこととなる。・・・
<これは、>「安史の乱」によって、唐朝の国力は弱ま<り>、同時にウイグル帝国とチベット帝国という両勢力の抬頭により、唐朝は東ユーラシアに君臨する大帝国から、中国本土のみを支配し存続する国家へと変貌し<、>・・・さらには「華夷思想」が生まれていき、隋から初唐に見られた国際性や普遍性がうしなわれていった<ことが背景にある。>」(268、270、277~279)
⇒中華思想については、「戦国時代から秦・漢にかけて統一国家へと向かう時期に,思想の次元にまで定式化され<た>」
https://kotobank.jp/word/%E8%8F%AF%E5%A4%B7%E6%80%9D%E6%83%B3-1152950
とするのが通説であるところ、著者が、いかなる根拠、典拠に基いて唐後半期に華夷思想が生まれたとするのか、不思議です。(太田)
(続く)