太田述正コラム#13712(2023.9.6)
<森部豊『唐–東ユーラシアの大帝国』を読む(その26)>(2023.12.2公開)
「・・・武宗が亡くなると、・・・憲宗の13番目の子で武宗の叔父・・・が即位した・・・。
廟号は宣宗(在位846~859年)という。・・・
唐末の皇帝の中では明君と評された宣宗だったが、晩年、<武宗同様、>道士らが処方した<金丹>を飲んで・・・それが原因で亡くなった。・・・
<そして、>長男の・・・懿宗(いそう)<(注59)>(在位859~873年)<が即位した。>・・・
(注59)859~873年。「遊興を楽しむのに節度がなく、酒色に没頭したまま政務を放棄した。即位後は宦官に朝政を一任し、その在位中には藩鎮の割拠とあいまって農民反乱が多発した。・・・
仏教を信奉した懿宗は・・・873年・・・、大臣の反対も聞かず、莫大な費用をかけて仏骨を迎える行事を強行した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%BF%E5%AE%97_(%E5%94%90)
この時代から目立ってくるのが、藩鎮の兵士のみならず、民衆たちの抵抗運動である。<(注60)>・・・
(注60)「懿宗の治世では、即位したその年から反乱が勃発しました。・・・裘甫の乱と龐勛の乱・・・です。」
https://blotabi.net/chinese-history-tou69/
懿宗が・・・崩御すると・・・彼の五番目の・・・わずか12歳・・・子・・・<が即位した。>
・・・18代目の僖宗(きそう)<(注61)>(在位873~888)である。・・・
(注61)862~888年。「在位期間中は宦官の田令孜に朝政を一任し、自らは享楽にふけった生活を送った。特に馬球を好み、側近の石野猪に対し「もし馬球の科挙があれば自ら状元となるであろう」と言った記録が『資治通鑑』に残されている。在位中は連年自然災害が続き、民衆の生活が困窮していた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%83%96%E5%AE%97
<そして、>唐を根幹からゆるがす大乱<(注62)>が山東でおこった。
(注62)「・・・<この乱を黄巣より前に起こした>王仙芝、が>唐軍の前に敗死・・・<した後、>880年<、>・・・長安を占領した・・・黄巣軍には深刻な食糧問題が生じた。元々長安の食料事情は非常に悪く、江南からの輸送があって初めて成り立っていたのである。長安を根拠として手に入れた黄巣軍だったが、それによりかつてのように攻められれば逃げるという行動が取れなくなり、他の藩鎮勢力により包囲され、食料の供給が困難となった。・・・
この状況で882年、黄巣軍の同州防御使であった朱温(後の朱全忠)は黄巣軍に見切りを付け官軍に投降した。さらに突厥沙陀族出身の李克用が大軍を率いて黄巣討伐に参加。
883年に黄巣軍は李克用軍を中核とする唐軍に大敗。もはや維持するのが困難になった長安を黄巣軍は退去し、河南へ入るが、ここで李克用の追撃を受けて再び大敗。黄巣軍は壊滅し、黄巣は泰山の狼虎谷にておいに首を打たせて果てた。
884年6月のことで、10年に渡った黄巣の乱は終結した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E5%B7%A3%E3%81%AE%E4%B9%B1
「李克用<(りこくよう。856~908年)は、>・・・後唐の太祖武帝と追号された。荘宗李存勗の父で、明宗李嗣源の仮父。唐末期に鴉軍<(あぐん)>と呼ばれる精鋭兵を率いて黄巣の乱鎮定に功績を挙げ、朱全忠と激しい権力争いを繰り広げたが、中途で病死した。独眼龍の異名を持つ猛将であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%85%8B%E7%94%A8
闇の塩承認であった王仙芝(おうせんし)が立ちあがり(874年)、ついで・・・その家<が>富裕な塩商人であ<った>・・・黄巣がこれに参加したのである(875年)。・・・
闇の塩をあつかう商人たちは、ネットワークをつくりあげて、たがいに情報を共有しあった。
これが中国社会特有の秘密結社の淵源になっていったという。・・・
僖宗が崩御すると、・・・<その>弟で、懿宗の7番目の子・・・<が>皇帝と<なっ>た。
これを昭宗<(注63)>(しょうそう)(在位888~904年)という。・・・
(注63)867~904年。「朱全忠が最大藩鎮として勢力を振るうようになった。朱全忠は自らが皇帝に即位する準備として内廷の宦官5千人余りを殺害し、地方の監軍の任に当たっていた宦官も処分した。904年・・・、朱全忠は大臣らの反対を押し切って洛陽に遷都した。李克用・李茂貞・王建などが朱全忠に反旗を翻した。
<同じ年>、昭宗は朱全忠に派遣された・・・兵によって暗殺された。宮中を逃げ回った末に殺されたといわれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%AE%97_(%E5%94%90)
朱全忠<(注64)>は、・・・<自分が殺した>昭宗の9番目の子・・・を・・・皇帝に即位させた。
(注64)852~912年。「五代後梁の初代皇帝。・・・黄巣の乱を頓挫させた卑怯な裏切者として、また、唐朝の二皇帝を惨殺したこと、多くの女たちと乱淫を繰り返したことなどにより、高い評価が与えられていない。・・・最期は息子に暗殺された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E5%85%A8%E5%BF%A0
・・・昭宣帝(在位904~907年)である。・・・
昭宣帝は・・・朱全忠<に>皇帝の位を禅譲さ<せら>れた。・・・
朱全忠は・・・国号を大梁とし・・・た(907年)。
これをもって、290年つづいた唐朝は、名実ともにほろんだのだ。」(281~282、293、297、327~328)
⇒唐詩くらいしか、後世に正の遺産を残さなかったところの、唐は、まさしくそれにふさわしい梟雄によって血生臭く滅ぼされた、と、言えそうです。(太田)
(続く)