太田述正コラム#13716(2023.9.8)
<森部豊『唐–東ユーラシアの大帝国』を読む(その28)>(2023.12.5公開)
「・・・耶律阿保機が・・・打ち建てた・・・契丹<(注67)>国は、従来の我が国の東洋史の学界において、女真族の立てた金やモンゴルの元、そして満州族の清とともに「中国征服王朝」とよばれ、中国歴代王朝の一つに数えられてきた。
(注67)「契丹の起源は拓跋部ではない宇文部から古くに分かれた東部鮮卑の後裔であり、・・・遊牧民であったという・・・契丹人は、・・・モンゴル語族の汎モンゴル語であり現在は消滅している契丹語を話した。<その>契丹人は、シベリア、モンゴル、<支那>北部の広大な地域を支配した遼王朝(916〜1125)を建国し、その指導者となった。・・・
1125年、金の侵攻により遼王朝が滅亡すると、多くの契丹が耶律大石の一派に従って西へ向かい、中央アジアにカラ・キタイ(西遼王朝)を建国した。このほか、<支那>の北遼、東遼、後遼、ペルシャのクトゥルグ=ハニード朝なども契丹が建国した政権である。現在、<支那>東北部の少数民族として認められているダウール族は、契丹人の遺伝的子孫である。
<支那>の歴史的名称である「キタイ」は、契丹という言葉に由来している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%91%E4%B8%B9
しかし、近年では、契丹国をはじめとするこれらの王朝を中国史の枠組みから解きはなち、時期区分でいう第二期にユーラシア各地で生まれ、モンゴル帝国にいたって完成したという「中央ユーラシア型国家」<(注68)>としてとらえなおすほうがいいのではないかとされている。
(注68)「ユーラシア南半分は暖かく豊かな水に支えられて生産力が高い農耕文明世界であるのに対し,ユーラシア北半分は寒冷で乾燥して生産力が低く,水利も悪いため農業が伝播しても「面」での農業ができず,牧畜・遊牧文明が優勢であった世界なのです。西欧中心史観と中華主義史観では,この北半分を「野蛮」と言ってきたのです<。>・・・
中央ユーラシアとは,農牧接壌地帯を相当広い幅のある境界としてユーラシアを南北に区分した時の北側であり,そこからユーラシア最北部のツンドラ地帯とシベリア〜沿海州の大森林地帯(高級毛皮をシルクロードに提供する森林の純粋狩猟民の活動範囲)をおおまかに除いたものです。・・・
中央ユーラシアは,「ユーラシアのうちで草原と沙漠とオアシスの優越する乾燥地帯であり,住民としては遊牧民とオアシス農耕民・都市民を主とし,森林草原地帯の半牧畜半狩猟民や半農半狩猟民を従とする地域世界である。そこに満洲と東ヨーロッパのかなりの部分やチベット高原全体は含まれるが,西アジアの大部分は含まれず,また秦嶺・淮河線以北の北中国でも関中盆地や中原や河北平原等の大農耕地帯は含まれない」と規定されることになります。・・・
例えば北中国の農牧接壌地帯や内モンゴル,満洲などは「中央ユーラシア世界」と「東アジア世界」の両方に属することになります。
今後は,できれば中央ユーラシアを以上のように広い意味で使用し,内陸アジアは,そこから東ヨーロッパの該当部分をカットした地域名称として使ってはいかがでしょうか。」(森安孝夫「内陸アジア史研究の新潮流と世界史教育現場への提言」より)
https://www.let.osaka-u.ac.jp/toyosi/members/moriyasu/moriyasu_inner_asian_26.pdf
中央ユーラシア型国家というのは、森安孝夫が提唱したもので、人口の少ない騎馬遊牧民などが、強力な騎馬軍事力と交易による経済力、そして文書行政などのノウハウをとりこんで、草原世界に立脚しつつ、人口の多い農耕民・都市民が居住する農耕世界を安定的に支配するシステムを確立した国家をいう。
このタイプの王朝は、従来「征服王朝」としてとらえられてきた契丹国、金、元、清にとどまらず、広くユーラシア各地に誕生した西夏王国、西ウイグル王国、カラハン朝、ガズナ朝、セルジューク朝などもそうであるという。
そして森安孝夫は、中央ユーラシア型国家の雛形は、渤海国や安禄山勢力そしてウイグル帝国にあったという。」(341)
⇒ますます森安孝夫本人がどういう主張をしているのかが気になってきたので、本シリーズが終わったら、引き続き、彼の『シルクロードと唐帝国』をシリーズで取り上げることにしました。(太田)
(続く)