太田述正コラム#13734(2023.9.17)
<森安孝夫『シルクロードと唐帝国』を読む(その8)>(2023.12.14公開)
「・・・ソグド人は人種的にはコーカソイドであり、・・・言語は、今では滅びたソグド語である。
ソグド語は印欧語族イラン語派に属する中世イラン語の東方言のひとつであった。
同じ東方言の仲間としてホラズム語・バクトリア語・コータン語があるが、方言とは名ばかりで互いに通じ合わないほど異なっている。
紀元前6世紀にアケメネス朝ペルシア<(注15)>のキュロス2世の征服を受け、ペルシアの属州になってから、ソグディアナでは初めて文字が使われるようになった。
(注15)「アッシリアの衰退と共にメディア王アステュアゲス(アルシュティ・ワイガ?)は、バビロニアを除くアッシリア北部の領土をすべて征服した。この時代のペルシアはメディアに服属していた。
紀元前550年に、アステュアゲスの孫(アステュアゲスの娘マンダネの子)で、メディア人とペルシア人の混血であるアンシャン王キュロス2世(クル)は反乱を起こし、メディアの将軍ハルパゴスの助けを得てメディアを滅ぼした。イラン高原を掌握したキュロスは、さらに小アジアのリュディア、エラム、メソポタミアの新バビロニアを滅ぼした。・・・
楔形文字を表音文字化した古代ペルシア楔形文字を発明した。
公用語は古代ペルシア語と、帝国アラム語 (Imperial Aramaic) ないし公用アラム語 (Official Aramaic) と呼ばれる標準化されたアラム語だった。・・・
ゾロアスター教、またはそれに近い宗教が王族達の間で信仰された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B1%E3%83%A1%E3%83%8D%E3%82%B9%E6%9C%9D
「インド・ヨーロッパ語を話す人々(イラン人)の居住は前2千年紀には確立していたと推定され、その中にはペルシア人と共にメディア人もいたであろう。・・・
メディア人たちが話した言語はメディア語と呼ばれ、インド・ヨーロッパ語族・インド・イラン語派に分類されている。メディア語はその中でも西イラン語の西北イラン語に分類される。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E7%8E%8B%E5%9B%BD
「アラム人(Aramaeans)・・・は、古代オリエントの遊牧民。・・・紀元前11世紀頃までに、ユーフラテス川上流に定住した。・・・その後、シリアに進出し<、>・・・当初はハマ、その後はダマスカスがアラム人勢力の中心となった。・・・ラクダを用いてシリア砂漠などを舞台に隊商貿易を行った。その後、さらに交易網を拡大し、古代オリエント世界に商業語としての古代アラム語・・・を定着させた。また、シリア沿岸部のフェニキア人が用いていたフェニキア文字からアラム文字が作られ、その後の西アジア・南アジア・中央アジアの様々な文字に影響を与えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%A0%E4%BA%BA
’The Arameans were never a single nation or group; rather, Aram was a region with local centers of power spread throughout the Levant. That makes it almost impossible to establish a coherent ethnic category of “Aramean” based on extra-linguistic identity markers such as material culture, lifestyle or religion.’
https://en.wikipedia.org/wiki/Arameans
⇒イエスが使っていた言葉がヘブライ語ではなくアラム語だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%81%8C%E4%BD%BF%E3%81%A3%E3%81%9F%E8%A8%80%E8%AA%9E
ことは知っていたけれど、アケメネス朝ペルシャの公用語が、ペルシャ語だけではなく、全く系統の異なるところの、アラム語、もだった、とは知りませんでした。(太田)
しかし、最初はアケメネス朝の公用語であるアラム語<(注16)>がアラム文字で書かれただけ<だったが、>・・・アケメネス朝滅亡後にアラム文字でソグド語を書写するようになり、そのアラム文字が草書化していってソグド文字が生まれたのである。
(注16)「かつてシリア地方、メソポタミアで遅くとも紀元前1000年ごろから紀元600年頃までには話されており、かつ現在もレバノンなどで話されているアフロ・アジア語族セム語派の言語で、系統的にはフェニキア語やヘブライ語、ウガリト語、モアブ語などと同じ北西セム語に属す言語である。・・・後に・・・中東全体のリンガ・フランカとして使われるようになったが、7世紀にアラビア語に押されて衰退した。・・・
アラム語は新アッシリア帝国の外交用語としても使われ、新バビロニアやアケメネス朝ペルシア帝国は行政用の公用語としてアラム語が使われた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%A0%E8%AA%9E
後にソグド人の東方発展にともなってソグド文字が突厥」・ウイグルに伝播し、唐代にこのソグド文字がウイグル文字へ、13世紀にはそのウイグル文字がモンゴル文字へ、そして最後には17世紀にモンゴル文字が満州文字へと転化していく。
紀元1000年紀にはソグド人が中央ユーラシア全域に雄飛して各地にコロニーを作り、有名な商人としてだけでなく、武人や外交使節、宗教の伝道者や通訳、音楽や舞踊・幻術などに携わる芸能者などとして活躍したために、このソグド文字ソグド語が中央ユーラシアの、とりわけシルクロード東部の国際共通語となったのである。」(100~101)
⇒ソグド人が遊牧民であることは知っていたけれど、ソグド文字がアラム文字由来で、アラム人もまた遊牧民であったことまでは知りませんでした。(太田)
(続く)