太田述正コラム#13736(2023.9.18)
<森安孝夫『シルクロードと唐帝国』を読む(その9)>(2023.12.15公開)
「ソグディアナはアケメネス朝を滅ぼしたアレクサンドロスの遠征の東の終点となり、以後、セレウコス朝シリア、バクトリア王国の領域に含まれる。
その後、ソグディアナ全体に絶対的権力を振るう王は一度も出現せず、ソグド諸国家は互いに独立し、ゆるやかな連合を組んでいた。
全体としても、紀元前2世紀からは康居<(注17)>(こうきょ)・クシャン朝<(注18)>、5世紀後半からは嚈噠(エフタル)<(注19)>・突厥などの遊牧国家の間接支配を受けることはあったが、8世紀前半にアラブのウマイヤ朝の直接支配を断続的に被るようになるまでは、ほぼ独立を保っていた。・・・」(101)
(注17)「かつて中央アジアに在ったとされる遊牧国家。大宛の西北に在り、シル川の中・下流からシベリア南部を領していたと思われ、現在のカザフスタン南部にあたる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%B7%E5%B1%85
(注18)Kushan。「紀元前2世紀、匈奴に圧迫されて移動を開始した遊牧民の月氏は、中央アジアのバクトリアに定着した。これを大月氏と呼ぶ。『漢書』西域伝によれば、大月氏は休密翕侯・貴霜翕侯・雙靡翕侯・肸頓翕侯・高附翕侯の五翕侯を置いて分割統治したという。それから100余年後、五翕侯のうちの貴霜翕侯(クシャンきゅうこう)が強盛となり、他の四翕侯を滅ぼして貴霜王と称すようになった。・・・
クシャーナ朝は大月氏の一派であるとも、土着のイラン系有力者であるともいわれる。
<クシャーナ朝創始者の>クジュラ・カドフィセスはカーブル(高附)を支配していたギリシア人の王ヘルマエウス(またはヘルマイオス)と同盟を結び共同統治者となったが、やがてヘルマエウスを倒してカブールの支配権を単独で握った。さらに濮達(ぼくたつ)と罽賓(けいひん:ガンダーラ)を征服しパルティア領(インド・パルティア王国)の一部をも征服した。・・・
・・・クジュラ・カドフィセスの子の・・・ヴィマ・タクトの時代に、北西インドと中央インドの一部、そしてバクトリア北部がクシャーナ朝の支配下に入ったといわれている。・・・
またヴィマ・タクトは西域進出も試み、90年に後漢の班超を攻めたが、撃退され失敗に終わった。これ以降、クシャーナ朝は後漢に毎年貢献するようになる。・・・
ヴィマ・タクトの子のヴィマ・カドフィセス・・・の息子(異説あり、王朝交代説を参照)カニシカ1世の時(2世紀半ば)、クシャーナ朝は全盛期を迎えた。都がプルシャプラ(現在のペシャーワル)におかれ・・・た。
カニシカはインドの更に東へと進み、パータリプトラやネパールのカトマンズの近辺にまで勢力を拡大した。・・・こうしたインド方面での勢力拡大にあわせ、ガンジス川上流の都市マトゥラーが副都と言える政治的位置づけを得た。
カニシカはその治世の間に仏教に帰依するようになり、これを厚く保護した。このためクシャーナ朝の支配した領域、特にガンダーラなどを中心に仏教美術の黄金時代が形成された(ガンダーラ美術)。この時代に史上初めて仏像も登場している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8A%E6%9C%9D
(注19)Hephthalite。「5世紀中頃に現在のアフガニスタン東北部に勃興し、周辺のクシャーナ朝後継勢力(キダーラ朝)を滅ぼしてトハリスタン(バクトリア)、ガンダーラを支配下に置いた。これによりサーサーン朝と境を接するようになるが、その王位継承争いに介入してサーサーン朝より歳幣を要求するほどに至り、484年には逆襲をはかって侵攻してきたサーサーン朝軍を撃退するなど数度に渡って大規模な干戈を交えた。さらにインドへと侵入してグプタ朝を脅かし、その衰亡の原因をつくった。
6世紀の前半には中央アジアの大部分を制覇する大帝国へと発展し、東はタリム盆地のホータンまで影響力を及ぼし、北ではテュルク系の鉄勒と境を接し、南はインド亜大陸北西部に至るまで支配下においた。これにより内陸アジアの東西交易路を抑えたエフタルは大いに繁栄し、最盛期を迎えた。
しかしその後6世紀の中頃に入ると、鉄勒諸部族を統合して中央アジアの草原地帯に勢力を広げた突厥の力が強大となって脅かされ、558年に突厥とサーサーン朝に挟撃されて10年後に滅ぼされた。エフタルの支配地域は、最初はアム川を境に突厥とサーサーン朝の間で分割されたが、やがて全域が突厥のものとなり、突厥は中央ユーラシアをおおいつくす大帝国に発展した。・・・
言語系統<としては、>・・・イラン系説<に立つ>榎一雄は「トハリスタンのある地方から出たイラン系の民族ではないか」としており、R・ギルシュマンもエフタルコインを分析して「その言語は東イラン語ではないか」としている<のに対し、>テュルク系説<に立つ>ヴィレム・フォーヘルサングは「エフタルは本来アルタイ語を話す民族であるが、少なくとも上流階級は占領地のバクトリア語を使用したのではないか」としている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%95%E3%82%BF%E3%83%AB
⇒ソグディアナがイスラム圏化してしまうのは、イスラム教が遊牧民兼交易民の宗教であることを想起すればごく自然なことだったのかもしれません。
むしろ、モンゴル「本土」がイスラム教化しなかった理由こそ追究されるべきかも。
また、非遊牧民である広義のマレー人
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E4%BA%BA
がイスラム教化したことも・・。
なお、支配層を含め基本的に非遊牧民たるペルシャ(イラン)のイスラム教化は、イスラム共同体による征服
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%B3%E6%9C%9D
に伴うものですが、少数派のシーア派を「国教」化した(典拠省略)ことが、スンニ派を素直に受け入れたソグディアナと劃されるところです。(太田)
(続く)