太田述正コラム#13742(2023.9.21)
<森安孝夫『シルクロードと唐帝国』を読む(その12)>(2023.12.18公開)

「・・・現代中国では中核となる漢民族のほかに50あまりの「少数民族」が公式に認められているが、中華人民共和国の領土内で唐代までに活躍した匈奴・鮮卑・氐・羌・羯・柔然・高車・突厥・鉄勒・吐谷渾・カルルク・奚・契丹などはその中に入っていない。
 なぜなら、秦漢時代までに形成された狭義の漢民族に、魏晋南北朝隋唐時代を通じてこれらが融合して新しい漢民族となったからである。・・・
 唐の建国の中心<は、>鮮卑系漢人と・・・匈奴系の費也頭と称する集団・・・であった<。>・・・

 (注24)「唐の建國社李淵の妻太穆竇<(たいぼくとう)>皇后<の>・・・竇氏は・・・、オルドス北西部に遊牧生活をおくっていた匈奴の一種、費也頭<(ひやとう)>種の出身であった。費也頭匈奴は北魏孝文帝の時代に擡頭し、六鎮の亂に乗じて勢力を擴大し、オルドスから一部は河西地方にも進出した。華北の戟略地理上の要地をおさえる費也頭匈奴は李淵と姻戚関係を結び、李淵が長安に入城して唐を建國する上で大きな役割を果たした。」
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/155227/1/jor057_4_734-1.pdf

 彼らが中華の唐帝国を確立するために最大のライバルとなったのは、かつての匈奴・鮮卑・柔然の後を承けて、当時の中央ユーラシア東部地域を支配していた遊牧国家・突厥第一帝国(東西両突厥、552~630<年>)である。
 この強大な勢力を打倒することなしに、唐が人類史上に燦然と輝くあれほどまでの世界帝国になることはありえなかったのである。・・・
 突厥が勃興した6世紀中葉は、ちょうど東魏と西魏がそれぞれ北斉と北周に名を変える頃であった。・・・
 北中国に分立した両王朝では、・・・突厥第一帝国に対抗することはかなわ<なかった。>・・・
 <突厥>第4代・他鉢(佗鉢)可汗<(注24)>が、「南方にいる二人の息子(タトバル)(北斉と北周)が孝順であるかぎり、我らにどうして物資欠乏の心配があろうか」という有名な言葉を吐いた・・・のは、まさに当時の勢力関係を象徴している。

 (注24)ウルクパル・チュラチュ・マガ・タトパル・カガン(?~581年)。「北斉に沙門の恵琳という者がおり、掠せられて突厥の領内に入った。恵琳は他鉢可汗に「斉の国が富強なのは仏法によるものである」と説いた。他鉢可汗はこれを信じて、伽藍を建て、使者を遣わし斉氏を訪問させ、浄名・涅槃・華厳等の経ならびに十誦律を求めた。他鉢可汗は自ら斎戒し、塔をめぐり行道した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%96%E9%89%A2%E5%8F%AF%E6%B1%97

⇒北斉や突厥のは、文字通りの現世利益/鎮護国家仏教ですね。(太田)

 互いにしのぎを削っている北斉・北周は自己に有利に働いてもらうよう物資援助や婚姻関係などで配慮せざるを得ず、片や突厥は北斉・北周の対立関係を利用して北から南をコントロールできたのである。・・・
 経済基盤の脆弱な遊牧を主とする国家にとって最大の困難は旱魃・霜雪(そうせつ)などの自然災害なのである。
 まさにこの突厥第一帝国をはじめ、次のウイグル帝国(東ウイグル)も、後世の大元ウルス(元朝)も、自然災害が国家滅亡の一大要因となったのである。
 自然災害や疫病などによって家畜の大量死という饑饉状態に陥った時、いつでも援助してくれる国家が南に控えていれば、これほど心強いことはない。・・・
 それまで北周寄りであった路線が、・・・<仏教のご縁もあり、>他鉢可汗即位によって、北斉寄りにシフトした・・・。・・・
 廃仏を574年に断行した北周の武帝によって、577年、最終的に北斉が滅ばされると、他鉢可汗は、・・・北斉からの逃亡者をまとめあげて亡命政権を作らせ、北斉復興を名目にして北周に侵入した。
 親征した武帝が急死するという不運に見舞われながらも、578年に行なわれた一連の戦闘においておおむね北周が突厥・北斉亡命政権連合側に勝利をおさめた。」(145、151~155)

⇒突厥/北斉亡命政権連合は仏教国連合でもあり、この連合が、廃仏した時期の北周に敗れたのは、私が累次指摘してきているところの、仏教信奉の呪いってやつであり、このように、現世利益/鎮護国家仏教であっても、仏教の非殺生戒や平和主義の教義が弥生性を脆弱化させてしまった可能性がある、と、私は考えています。
 もちろん、それに加えて、寺院が財力や人力を囲い込んでしまうことが、権力者の軍事力の直截的な足かせとなるわけです。(太田)

(続く)