太田述正コラム#13744(2023.9.22)
<森安孝夫『シルクロードと唐帝国』を読む(その13)>(2023.12.19公開)
「しかし突厥と中華のこうした関係は隋代になると逆転する。
・・・文帝・・・<は>突厥に対し巧みな内部離間策を用い、583年、ついに突厥を東西に分断させることに成功した。・・・
<そして、>東突厥は隋に臣属した・・・。
かつては北の突厥が南の分裂中華をうまく操っていたのが、今度は南で北中国を再統一した隋が北で分立する突厥を操るようになるのである。・・・
<しかし、文帝の子の>煬帝は、即位3年後の607年には万里の長城を修復させているのであるから、東突厥を完全に押さえ込んだとは思っておらず、むしろ潜在的脅威を感じていたはずである。
煬帝が、結局は隋の命取りになる高句麗遠征(612~614年)にあれほど執着したのは、朝鮮半島北部から満州に拠る高句麗がモンゴリアの東突厥に直結していたからであるにちがいない。・・・
⇒なるほど、ここは一応納得です。(太田)
<そして、>高句麗遠征失敗で疲弊しきった中華では反乱が相次ぎ、後漢末以上にひどい分裂状況に陥っていく。・・・
<このような背景の下で、東>突厥が完全に中華を凌ぐ態勢が復活した<。>・・・
<また、>西突厥も隋の影響下を脱して再び勢力を回復してきており、・・・<やがて、>西突厥は中国本土と隔たった中央アジアで自存する。
それに対し、もっぱら唐と関わって、以後の中国史の動向を左右することになるのは東突厥なのである。
⇒「仏教治国策(ぶっきょうちこくさく)は、・・・隋の文帝の特徴的な仏教政策を指す。文帝は、自らを「菩薩戒仏弟子皇帝」と称して、もともとの廃仏政策を改めて仏教信仰に篤く、舎利を領布するなど内外社会への仏教普及を実践し、文帝の後の煬帝も『隋書』倭国伝に「菩薩天子、重ねて仏法を興す」とある通りの天子として倭国に認識されていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99%E6%B2%BB%E5%9B%BD%E7%AD%96
ことから窺われるところの、仏教の呪いから隋もまた逃れられず、だからこそ、高句麗遠征も失敗したし、東突厥との力関係の逆転、西突厥の離反、も、もたらされた、と、私は見るに至っています。(太田)
隋末の反乱で煬帝およびその一族が殺されると、煬帝の未亡人となった蕭皇后<(注25)>は、文帝・煬帝の子と孫のうちでただ一人生き残った赤児の楊正道<(注26)>(楊政道)とともに、・・・突厥に身を寄せることになった・・・。・・・
(注25)567~647年。「後梁の明帝蕭巋の娘。・・・蕭氏は学問を好み、文章を作り、占いに詳しく、夫の楊広(煬帝)と似ている部分が少なくなかった。煬帝が即位すると、皇后に立てられた。煬帝が遊幸におもむくたびに、皇后は必ずつき従った。煬帝の失政がひどくなると、皇后は「述志賦」を作って諫めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%AC%E6%84%8D%E8%95%AD%E7%9A%87%E5%90%8E
(注26)618?~650?年。「隋の斉王楊暕<・・煬帝の次男・・>の遺腹の子として生まれ・・・、祖母であり煬帝の皇后であった蕭氏とともに宇文兄弟の監視下にあった。しかし、・・・619年・・・に宇文兄弟が竇建徳に敗れると、蕭皇后と楊政道の身は竇建徳の手で保護された。・・・620年・・・、一族の義成公主の夫である突厥の処羅可汗が使者を派遣して蕭皇后と楊政道を迎えると、楊政道は隋王に擁立された。突厥に逃れた漢民族らが配下に置かれ、定襄城を居城とした。・・・630年・・・、突厥が滅亡すると、楊政道は唐に帰順し、員外散騎侍郎の位を受けた。のち、尚衣奉御となった。永徽初年に、死去した。子に楊崇礼(楊隆礼)があり、唐の太府卿となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E6%94%BF%E9%81%93
東突厥では、かつて啓民可汗に嫁いだ義城公主<(注27)>が、・・・レヴィレート婚<で>・・・啓民の息子・・・、次いでその弟・・・、さらにその弟・・・の妻となるのであるが、彼女は隋王室の血統であり、当然ながら煬帝の皇后と孫を援助する意志を強く持っていた<のだ>。・・・
(注27)ぎせいこうしゅ(?~630年)。「隋の皇室との親族関係は不詳である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E6%88%90%E5%85%AC%E4%B8%BB
李淵・李世民父子が長安奪取をめざした617年に太原で旗揚げするに先だっては、他の多くの隋末の群雄と同様、突厥に誼を通じて、その承認と後援を得ていた。・・・
<630年、>・・・唐は、蕭皇后と楊政道ばかりでなく・・・可汗さえも罪を許して優遇することになるのに、一人義城公主だけは長安に護送されることもなく現地で即座に殺害された・・・。
それは、とりもなおさず彼女こそが唐王朝に対する一連の敵対行動の元凶であると認識し、その隋王朝復活と言う野望の息の根を止めるためだったにちがいない。」(155~156、158~161)
(続く)