太田述正コラム#13746(2023.9.23)
<森安孝夫『シルクロードと唐帝国』を読む(その14)>(2023.12.20公開)
「・・・こうしてからは、建国から10年以上を経た630年・・・、ついに国内の群雄と隋亡命政権と、さらに最大のライバルであった北方の東突厥とのすべてを打倒することができたのである。・・・
ここに唐は、おそらくは100万に近い膨大な数の旧突厥国人を国内の農牧接壌地帯に抱え込むこととなり、突厥遺民が復興して突厥第二帝国を建てるまでの約半世紀間、突厥問題は国内問題となるのである。
従来・・・多く<の専門家>は、630年の東突厥の滅亡<を受けて>・・・草原遊牧地帯の諸民族の首長たちが、太宗に対して「天可汗」という称号を奉った事実をとらえて、そのことは・・・、太宗が農耕中国の天子たる「皇帝」のほかに、北~西北方の草原世界の天子たる「大可汗」としても認知された<のであって>、ここに唐帝国は真の「世界帝国」に成長した・・・と説明<してきた>。
しかし<、果たしてそうだろうか>。
・・・中央ユーラシア東部のトルコ系諸民族が唐王朝・唐帝国のことをタブガチ・・・と称し<てい>たことが明らかとなっている。
このタブガチとは、「唐家子」に由来する(桑原隲蔵説)のではなく、白鳥庫吉とP=ペリオが主張したとおり、本来は拓跋=タクバツ・・・という名称が訛ったものなのである。・・・
このように同時代に最有力な隣人であった北のトルコ系諸民族が唐をタクバツと認識していたという事実からも、唐が漢人王朝ではなく拓跋王朝であったという中央ユーラシア史的見方の正当性が、いっそう高められよう。
北魏以来隋唐までの拓跋国家の天子は、北の草原のトルコ=モンゴル系遊牧民世界から見れば、あくまで北方出身の「タブガチ可汗」すなわち「タクバツ(国家の)可汗」である。
太宗は出自的にもそうした北族の王者たるにふさわしい血統を引いているのである。
そのようなタクバツ可汗に率いられた唐帝国が、軍事力によって突厥・鉄勒を包含するトルコ世界を征圧したのであるから、複数存在可能な小可汗の上に立つ大可汗という意味で、あるいは唯一至高の可汗として、草原世界の諸君長がこれに「天可汗」という尊称を奉るのはごく自然なことと考えられる。・・・
⇒納得です。(太田)
647年、太宗は・・・ウイグル<の>・・・吐迷度<(注28)>(とめいど)からの「ウイグル以南の地に郵駅を設け、北方全体を管轄下に置いていただきたい」との要請を受け、6つの羈縻府と7つの羈縻州を設置した。
(注28)?~648年。「回紇部<(ウイグル)>の俟利発(イルテベル:部族長)。・・・646年・・・、唐に遣使入貢した。・・・兄の子<に>・・・妻と姦通<され、その上、その兄の子の>部下<達によって>・・・謀殺さ<れた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%90%E8%BF%B7%E5%BA%A6
「羈縻」<(注29)>とは、制度上は中国王朝の地方官制に包摂するが、異民族の社会はそのまま維持して統治させるものである。
(注29)「古くは漢の時代にもみられるが、唐の時代に最も巧みに利用された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%88%E7%B8%BB%E6%94%BF%E7%AD%96
このやり方は、直轄化(内地化)よりはるかに緩やかであるが、異民族・国家の君長に官爵を与えて中国王朝の官爵制に組み込みながら完全な独立を認め、ただ朝貢の義務を負わせるだけの臣属関係である「柵封」よりは厳しく、かなり実質的なものである。・・・
府には都督、州には刺史を置き、府州にはすべて長史・司馬以下の官吏を任じて統治に当たらせた。
その際、都督や刺史にはそれぞれの遊牧部族の族長を任命し、長史・司馬以下の属官にも現地遊牧民の有力者を充てた。
唐はこれらの羈縻府州を統轄する機関として、647年、オルドス西北方の豊州あたり(黄河以北、陰山以南の五原方面)に燕然都護府<(注30)>を設け、唐人を最高責任者の都護とした。
(注30)「漢、唐王朝の時代に、辺境警備・周辺諸民族統治などのために置かれた軍事機関。都護府の長官は都護と呼ばれていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E8%AD%B7%E5%BA%9C
その際、ゴビ砂漠入り口・・・以北に68ヵ所の郵駅からなる「参天可汗道」・・・、すなわち天可汗のもとに参上するための道を開通させ、各駅には厩食糧を備えさせて、使者の往来の便を確保した。
こうして燕然都護府<(注31)>に、毎年北方所属に割り当てられた貂皮をはじめとする重要な貢ぎ物を持参する朝貢使その他を監督したり、各種郵便物の輸送を円滑にする役目を与えたのである。」(168、172~174、178~179)
(注31)「唐代に外モンゴルに置かれた軍事行政機関。・・・瀚海都護府<、>・・・安北都護府の前身。・・・
647年・・・鉄勒諸部が唐に帰順したため、その地を分けて13の州府を置いた。・・・太宗は鉄勒諸部に6府7州を置き、府には都督を、州には刺史を置き、それぞれに長史と司馬以下の官を置いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%87%95%E7%84%B6%E9%83%BD%E8%AD%B7%E5%BA%9C
⇒羈縻政策にせよ都護府の設置にせよ、唐は漢に倣っているわけであり、こういったことからも、漢人文明が、五胡十六国時代/南北朝時代を経た唐の時代に新たな文明へと変貌を遂げた、とまでは言えないようですね。(太田)
(続く)