太田述正コラム#13754(2023.9.27)
<森安孝夫『シルクロードと唐帝国』を読む(その18)>(2023.12.24公開)
「・・・日野開三郎(かいざぶろう)・池田温(おん)らの研究によって、唐の両都である長安・洛陽をはじめ、各州県の・・・市場には、奴婢と馬・駱駝以下の家畜を取り引きする「口馬行(こうばこう)」が存在していたことが証明された・・・。
⇒「口馬行」でも「口馬」(注41)でも、ネット検索をかけても、このような含意のものは1件もヒットしませんが・・。(太田)
(注41)「張家口以北の地・・産の馬」
https://chdict.conomet.com/word/%e5%8f%a3%e9%a9%ac/
この「口」とは生口すなわち奴隷のことであり、口馬行とは「奴隷と馬などの家畜を扱う店舗群」の意味である。
この名称からも、奴婢が馬をはじめとする家畜と同じくモノとして扱われていたことが窺えるが、実際に奴婢と家畜は、檻に入れられるか手足を緊縛して繋がれるかして、一緒に並べて販売されていたのである。・・・
682年には・・・突厥第二帝国<が>成立<する>」。
そして翌683年には単于都護府<(注42)>を陥落させた。・・・
(注42)ぜんうとごふ。唐の高宗の時に設置された六都護府の一つであり、この都護府は突厥などのトルコ系民族の諸部を統べた。・・・帰化城(内モンゴル自治区フフホト)付近にあったという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%98%E4%BA%8E%E9%83%BD%E8%AD%B7%E5%BA%9C
この突厥の復興と漠北回帰に尽力したのが、王族・阿史那氏に次ぐ名門の阿史徳氏のリーダーであった阿史徳元珍、すなわちトニュクク<(注43)>(漢字表記は暾欲谷(とんよくこく))である。・・・
(注43)「突厥の重臣。7世紀後半から8世紀初め頃活躍。イルテリシュ・カガン (骨咄禄可汗) の挙兵,征討に対して功をあげ・・・た。以後黙啜可汗 (もくてつかがん) ,ビルゲ・カガン (毗伽可汗)両カガンに仕えて重用された。」
https://kotobank.jp/word/%E3%83%88%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%82%AF%E3%82%AF%28%E6%9A%BE%E6%AC%B2%E8%B0%B7%29-105524
イルテリシュ可汗<(コラム#13686)>が691年に病死すると、弟の默啜が・・・カプガン可汗<(コラム#13686)>として即位した。
ちょうど中国は武周革命の時期に当たっており、以後、カプガンは則天武后に対して挑戦的な中国侵略と和親とを繰り返した。・・・
晩年のカプガンはその横暴ぶりで、いったんは支配下にはいっていた諸勢力の離反を招くようになった。
そして・・・716年・・・<戦死>した・・・。
その結果、・・・初代イルテリシュ可汗の子である默棘連<(ぼくきょくれん)>・・・がビルゲ可汗<(注44)>として即位・・・するとともに、・・・譜代の老臣トニュクク<(暾欲谷)>が宰相に返り咲いた。」(256、268~269、272、275)
(注44)毘伽可汗(683~734年)。「毘伽可汗が城壁の修復と、仏教・道教の寺院の建築を提案した時も、暾欲谷は「遊牧民がすることではありません」と諫めた。・・・
734年)、毘伽可汗は大臣の梅録啜に毒を盛られるが、すぐには死ななかったので、梅録啜を斬り、その一味を滅ぼしたうえで死んだ。国人は毘伽可汗の子を立てて伊然可汗(イネル・カガン)とした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%98%E4%BC%BD%E5%8F%AF%E6%B1%97
⇒「注44」に出てくる、トニュククのビルゲ可汗に対する諫言は興味深いですね。
城は移動を旨とする遊牧民には不要ということでしょうが、仏教についてはその不殺生戒が遊牧民には抵抗感があるのは当然として、道教まで忌避されたのは、支那仏教も道教も平和志向であって、間歇的略奪を旨とする遊牧民とは相いれないという趣旨なのでしょうか。(太田)
(続く)