太田述正コラム#13770(2023.10.5)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その1)>(2023.12.31公開)
1 始めに
「森安孝夫『シルクロードと唐帝国』を読む」シリーズを再開すべきところ、「シルクロード」についての私の土地勘が十分でないこともあることと、いまだに仏教「研究」疲れからの恢復過程にある私としては、土地勘が十分である事柄を取り上げた方が無難だと思い至り、かつまた、終わったばかりのオフ会で今後のことを議論していながらすっかり忘れていたところの、「余生」は、再び、過去において取り上げた諸文明「研究」を掘り下げるという手もある、との私の過去の独り言・・ディスカッションでご披露したかも・・を思い出し、かかる観点から、漢人文明「研究」を掘り下げる目的で、漢、宋、明、に関する新書本をそれぞれ1冊ずつ既に購入済みであることも思い出し、さっそく、表記のシリーズを開始することにしました。
なお、私は、上記3冊を買った時点では、宋は漢人による支那統一王朝である、という認識であったけれど、その後、『唐–東ユーラシアの大帝国』シリーズや未完の『シルクロードと唐帝国』シリーズを手掛けた過程で、宋は、北宋時代さえも、支那統一王朝とは言えず、非漢人王朝たる遼との新南北朝時代だった、という認識に変って現在に至っている次第です。
(『シルクロードと唐帝国』シリーズは、時機を見て、再開する所存です。)
さて、表記の著者の渡邊義浩(1962年~)についてですが、筑波大(史学)卒、同大修士、博士(文学)、北海道教育大講師、大東文化大助教授、教授、早大教授、同大理事、大隈記念早稲田佐賀学園理事長、そして三国志学会事務局長、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E9%82%89%E7%BE%A9%E6%B5%A9
という人物です。
2 『漢帝国–400年の興亡』を読む
「中国を最初に統一した秦帝国に代わった漢帝国は、王莽による中断を挟み、前漢・後漢と合わせて400年以上続いた。
中国史上最長の統一帝国である。
むろん、殷王朝や周王朝は、漢帝国よりも長く続いている。
両王朝が、中国の源流であることは間違いないが、その領土は小さく、大づかみに他の都市国家を支配するだけで、民の一人ひとりを直接支配しようとするものではなかった。
また、秦以降の中国国家は、秦が始めた郡県制など中央集権的な統治機構が内部から崩壊し、たとえば、中世的な封建制へと移行する、という形で国家が滅亡することはなかった。
中央集権的な統治機構はそのままに、国家全体が農民反乱に覆されるのである。
ただし、反乱の主体となった農民のための国家は、毛沢東の中華人民共和国まで生まれることはなく、農民反乱の後は、その指導者が皇帝となり、秦と同じような中央集権国家が再編され、それが農民反乱で滅亡するまで続く、という歴史を繰り返した。・・・
なぜ同じ「かたち」で国家が組みあがるのかを考えたとき、始皇帝が創りあげた「かたち」をもとに、漢代に中国の規範とすべき「国のかたち」が定まったことの重要性に気づく。
清まで続く「中華帝国」、そして今日も中国人の大多数を占める「漢民族」の形成には、漢帝国が決定的な役割を果たした。・・・
「漢」民族・「漢」字という呼称は、中国が自らの古典として漢帝国を尊重し続けてきたことの象徴的表現であろう。
本書は、そうした漢を「古典中国」と位置づける。・・・
本書は、漢帝国の歴史を叙述しながら、漢帝国が作り出した「古典中国」とは何か、という問題に迫るものである。」(ⅰ~ⅲ)
⇒殆ど納得です。
そして、改めて「研究」をする必要があるけれど、支那には封建という言葉こそあったものの、封建社会も封建時代もなかった、と、著者は言っている、と、私は受け止めました。
厩戸皇子は、封建社会概念をその実態が存在したことがなかったところの、支那、の諸文献からイメージし、その社会を日本で創り出そうとした、と言ってよいのでは、とも。
なお、なぜ、全面的に納得しなかったかと言うと、中共もまた、実体としては、「農民のための国家」ではなく、ご承知のように、「日本文明総体継受のための国家」である、と、私が考えているからです。(太田)
(続く)