太田述正コラム#13774(2023.10.7)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その3)>(2024.1.2公開)

 ・・・商鞅の「上からの氏族制の解体」が、ある程度の成功を収めたのは、秦は他の「戦国の七雄」に比べて後進国<(注7)>であり、本来的にも氏族制が弱体であったことによる。

 (注7)「法律も、隣国である魏の法律(魏律)を引用してい・・・たし、商業においても「布銭」という趙・魏・韓の貨幣を使用していた<。>」
https://rekishikaido.php.co.jp/detail/6396

⇒西周の都の鎬京、東周時代の新の都の咸陽、そして、「前漢、新、後漢(滅亡前の数年間)、西晋(滅亡前の数年間)、前趙、前秦、後秦、西魏、北周が首都を設置し<た>・・・長安」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%89
は、現在の陝西省の渭水の畔のほぼ同じ場所に位置しています。
 話を限定するとしても、孝公当時の秦は、西周時代の周の心臓部を領域にしていたわけですから、どうして、戦国時代の秦が「後進国」に転落していたのか、はたまた、どうして氏族制が弱体だったか、を、著者は説明する必要がありました。(太田)

 この結果、解体された一人ひとりを君主が直接把握することにより、国家の中で君主のみが唯一強力な権力を持つ、始皇帝の目指す国家体制が、次第に形成されていくのである。・・・
 秦は「西戎の覇者」と呼ばれた穆公<(注8)>のときから、西方異民族との交戦を通じて騎馬戦術を導入し、孝公のときの商鞅、秦王政のときの李斯など、能力があれば他国の出身者でも重用した。

 (注8)ぼくこう(BC659~BC621年)。「春秋時代の秦の第9代公。・・・隣国晋の献公の娘を娶り、その時に侍臣として百里奚が付いてきた。穆公は百里奚<(*)>を召抱え、以後は百里奚に国政を任せるようになった。
 穆公9年(紀元前651年)、晋の献公が死ぬと、後継争いで晋国内は騒乱状態となった。晋の公子夷吾は晋公の座に着くために穆公に援助を要請した。穆公は夷吾の兄の重耳の方を人格的に好んでいたが、重耳が辞退したことと、英邁の誉れ高い重耳に比べると出来の悪い夷吾を晋公に推せば何かと自分に有利になると踏んで、夷吾を晋に入れて恵公とした。この時に恵公は穆公に礼として領土の割譲を約束していた。しかし晋に入った恵公は約束を破り、晋国内で悪政を行った。
 穆公13年(紀元前647年)、晋は不作になり、食糧が不足したために秦へ援助を要請した。家臣たちは領土割譲の約束を破った恵公に何で食糧を送ってやる必要があるかと反対したが、穆公は「恵公の事は憎んでいるが、民に罪は無い」と言い、晋に大量の食糧を送った。その翌年に今度は秦が不作となった。穆公は晋へ援助を要請した。しかし恵公は食糧を送らず、逆に好機ととらえて秦に攻め込んできた。これにさすがの穆公も激怒し、翌年に出兵して晋軍と韓原で激突し(韓原の戦い)、大勝して恵公を捕虜とした。凱旋して帰ってきた穆公は恵公を祭壇で生贄にしようと思っていたが、夫人の穆姫に止められた<(※)>。そこで恵公の太子圉を人質にして、恵公の帰国を許した。
 穆公20年(紀元前641年)、度重なる土木工事で増築して、国家自体が疲弊した同族の梁を滅ぼした。
 穆公22年(紀元前638年)、晋で恵公が重病となると圉は晋に逃げ帰った。度々の背信に怒った穆公は楚にいた重耳を迎え入れて、共に兵を出して重耳を文公とした。
 穆公36年(紀元前624年)、文公没後の晋を討ってこれを大いに破り、西戎を討って西戎の覇者と認められた。
 穆公39年(紀元前621年)、薨去。この時に家臣177名が殉死した。主立った家臣たちが数多く殉死したことにより、秦の国力は大きく低下し、一時期、表舞台から遠ざかることとなる。・・・
 百里奚・・・等の異邦の異才を登用して国力を増強させた事は、はるか後の商鞅や張儀・范雎等の異国の異才達による秦の天下統一への道筋の先鞭ともなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%86%E5%85%AC_(%E7%A7%A6)
 *「百里奚は徹底した徳政を行い、周辺諸国を慰撫する政策をとった。これにより周辺の10カ国が秦に服属することを申し出で、百里奚は文字通り千里(1国=百里、10国=千里)を拓き、国力を大いに増大させた。このことは、始皇帝の代に秦が中国を統一する基盤となった。
 また清廉潔白で、冬でも外套を着ず、国内を巡察するときは衛兵に武器を持たせなかったという。更に百里奚は、彼がかつて世話になった親友の蹇叔の登用を穆公に薦め、それを受けて穆公は蹇叔を秦へと招聘し、上大夫とした。
 百里奚が宰相になったとき、すでに90歳を越えていたものと思われ、死んだときは100歳近かっただろうといわれる。
 子の孟明視や親友の蹇叔も百里奚の死後、宰相となって穆公をよく補佐した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E9%87%8C%E5%A5%9A
 ※「穆姫がこのことを聞くと、太子罃や公子弘に娘の簡璧を連れて高楼に昇り、薪を積み喪服の用意をして穆公を迎えた。穆姫は恵公を入朝させれば、焼身自殺する覚悟を示したので、穆公は妻を恐れて恵公を霊台に宿泊させた。秦の大夫は恵公を入朝させようと願い出たが、穆公は妻の死で喪服の帰国となってはつまらないと、恵公を晋に帰させることとした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%86%E5%A7%AB

⇒「穆公のときから、西方異民族との交戦を通じて騎馬戦術を導入し<た>」背景についても、著者の見解を聞きたかったところです。(太田)

 そして何よりも、分異の令と軍功爵制で氏族制を積極的に解体することにより、国力を増強した。
 こうして、秦王政の親政開始時には、他の6国を圧倒する力を持っていた。」(16~17)

(続く)