太田述正コラム#13778(2023.10.9)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その5)>(2024.1.4公開)

 始皇帝の26(前221)年、6国を平定した秦王政は、始皇帝と称すると、旧6国の地域にも、郡県制を施行する。
 丞相[総理大臣]・・・たちは、燕・斉・荊[楚]の地が遠方であることを理由に、皇子たちを立てて王とする封建制を提案していた。
 これに対して、廷尉[法務大臣]の李斯<(注10)>は、周の封建した同族の諸侯がやがて疎遠となって争いあったこと、秦の皇子や功臣には賞与を賜ればよいことを理由に、諸侯を置くことに反対する。

 (注10)?~BC208。「法家を思想的基盤に置き、度量衡の統一、焚書などを行い、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後に宦官の趙高との権力争いに敗れ、処刑された。・・・
 李斯は法家理論の完成者の韓非に対して、法家の実務の完成者とされる。李斯は韓非を謀殺した事や偽詔で扶蘇を殺した事、他にも儒者を徹底的に弾圧した焚書坑儒に深く関わったため、後世の評判は非常に悪いが、秦の<支那>統一において最も大きな役割を果たしていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%96%AF

⇒「注10」は、坑儒が、儒教の弾圧では必ずしもなかったことを示唆しています。(太田)

 始皇帝は、諸侯の国を建てることは、戦乱をたてるに等しい、と李斯の議を是として、天下を36の郡に分け、郡県制を施行することを定めたのである。・・・
 郡県制<で>は、・・・行政官として郡に守、県に令を派遣する一方で、尉に郡の軍事力を掌握させ、守への権力集中を防ぐ。
 さらに監によって守と尉を監察して、すべての権力が皇帝に集まるようにした。
 そして、・・・守には、県令を所属させず、それぞれ別々に皇帝に直属させたのである。<(注11)>

 (注11)「周の封建制が崩壊するなかで、春秋期以降に現れ、秦朝に確立した行政制度。・・・
 最初は辺境地方に郡や県が顕著に現れるが、しだいに中原諸国にも県設置がなされる。春秋の県は後の郡県制のそれとは違って、周代封建制の封邑と本質的には変わらない。郡県制の県は、秦の孝公が商鞅を登用して、41県を咸陽を中心とする地方に配置したのが始まりと考えてよい。郡については、秦国では他国を併合したときその領域を郡と称している場合が多く、そののちに県を置くようになる。したがって最初から郡県が上下の統属関係として設けられたわけではない。整備されたのは秦の始皇帝の時代である。
 商鞅の県制の内容をみると、彼は、君主が直接人民を支配できる場として県を想定していたことがわかる。「小都、郷邑、聚(しゅう)を集めて」県とした(『史記』「商君列伝」)というように大族を分解し、おもに開拓地を中心に成立した小邑群を集めて、中央政府直轄の県を設けたのである。郷とか聚の基本単元は『管子』では軌であり、商鞅では伍(ご)であり、睡虎地(すいこち)秦墓竹簡の示すところでは隣であり、いずれも小宗族(そうぞく)であると考えられる。伍は5戸によって構成されるが、商鞅によって戸別直接支配を意図したものの、そこまで支配できず、伍制という宗族の小単位把握にとどまったものである。その意味では商鞅の意図にもかかわらず「変法」による県制の成立は封建制の改編という結果に終わったといえよう。
 秦の始皇帝の天下統一によって郡県制は全国に及ぼされた。紀元前221年には東方6国を滅ぼし、36郡を設けて行政を統括した。郡には郡守、郡尉、郡監を置き、県には県令、県尉、県丞(けんじょう)を置いて、行政、軍事、監察の分野をそれぞれ担当した。彼らは中央派遣で地位を世襲することなく、随時転任させられた。したがって原則的には、周代にみる職官、土地を基本とする封建制は消滅したのである。
 しかし、県の下部単位の郷には父老、里には里典、伍には伍老などの宗族の代表者があって、官吏と共同して統治しているという実状にあった。秦朝の中央集権体制もこのような意味では小宗族の群に支えられている<。>」
https://kotobank.jp/word/%E9%83%A1%E7%9C%8C%E5%88%B6-58320

⇒郡と県のそれぞれの管轄事項と、両者の業務上の調整がどのように行われたのか、また、郡の軍事力の他に中央政府の軍事力があったのか、あったとして、この2つの軍事力の役割分担がどうなっていたのか、興味があります。(太田)

 こうして郡県制は、隋より州県制と名称を変え<(注12)>ながらも、基本的な仕組みが、こののち清まで継承された。・・・

 (注12)「魏晋南北朝に入ると郡県の名はあるが、実体はなくなった。漢族が南渡すると本籍地の郡県を寄留地に設けたため混乱を起こすに至った。隋(ずい)の文帝はこのため郡を廃して州の下に県を直属させることにしたので郡県制は終わった。」(上掲)

 漢はこれを継承する。
 始皇帝はまた、画一的な統治が可能となるように、度量衡・貨幣[半両銭]・文字[小篆]を統一した。
 さらに、交通網を整備し、民間の武器を没収した。
 これらは、丞相となった法家の李斯の政策に基づき、厳格な法により徹底して行われた。
 李斯は、学問を吏から学ぶ法律のみに限って、実用的な価値を持つ医薬・占い・農業以外の書籍を焼き[焚書]<(注13)>、始皇帝の政治を批判した儒者を穴埋めにした[坑儒]という。

 (注13)「紀元前213年・・・
1.秦以外の諸国の歴史書の焼却。
2.民間人は、医学・占い・農業以外の書物を守尉に渡し、守尉はそれを焼却する。
3.30日以内に守尉に渡さなかった場合、入墨の刑に処する。
4.法律は、官吏がこれを教える(民間の独自解釈による教育を禁じると言うこと)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%9A%E6%9B%B8
 「儒教の経典である六経のうちの『楽経』はこの時失われ、漢代に五経として確立された。
 紀元前206年、漢の高祖劉邦が秦を滅ぼしたが、依然として挟書律は現行法であり、その後恵帝4年(紀元前191年)11月になってようやく廃止された。また、『韓非子』和氏篇には商鞅に仮託して、挟書を政策として採用すべきだと議論しており、李斯の独創ではなく、戦国末期には法家によって提案されていた政策だった。
 後世に魯迅は「華徳焚書異同論」において、ナチス・ドイツの焚書と比較して焚書坑儒は進歩的な行為だったと主張している。また文化大革命時には、「批林批孔」運動において、毛沢東が焚書・坑儒を正当化する漢詩を詠じたが、後に中国共産党の公式見解の一つとされる席簡・金春明『「文化大革命」簡史』では、毛の漢詩を「表面的には歴史学者の学術書に対して反対意見を述べているようにみえるが、(中略)政治闘争の必要から書かれたものである」と述べている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%9A%E6%9B%B8%E5%9D%91%E5%84%92

 ただし、本来、別々の事件であった「焚書」と「坑儒」を「焚書坑儒」と総称し、思想弾圧の典型として非難することは、秦を批判する漢代人の創作である。」(17~19)

⇒「始皇34年(紀元前213年)、博士淳于越は郡県制に反対し、いにしえの封建制を主張した。丞相の李斯は、儒者たちがいにしえによって体制を批判していると指摘し、この弾圧を建議した。始皇帝はこの建議を容れて、医薬・卜筮・農事以外の書物の所有を禁じた「挟書律」を制定した。 」(上掲)というのですから、「焚書」と「坑儒」ではなく、やはり、「焚書坑儒」でしょう。(太田)

(続く)