太田述正コラム#13780(2023.10.10)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その6)>(2024.1.5公開)
「・・・氏族制の解体が最も遅れていた国は、楚であった。
楚は、国全体の武力としては秦に負けないものを持っていた。
しかし、百の力を一人に集中すれば、分散している200の力をやぶることができる。
このため、王に権力を集中した秦は、氏族性が残存して王族に力が分散していた楚を破ることができたのである。
しかし、分散していた力が「反秦」という一点に集中したとき、秦は楚に敗れた。
反乱を起こした陳勝・呉広も、秦を滅ぼした項羽も、項羽を破って漢を建てた劉邦も、すべて楚の出身者である。」(21)
⇒漢の母胎とも言うべき楚・・秦よりも更に、一般の中原諸国とは異質だったらしい・・についても、著者は説明していないに等しいので、囲み記事を起しました。↓
[楚]
「楚の成立に関しては、漢民族とは異質な長江文明の流れを汲む南方土着の民族によって建設されたとする土着説など、さまざまな仮説がある。現代の遺伝子調査では長江以南である<支那>南部の楚、呉、越の遺伝子は<支那>北部の遺伝子と相違する。・・・
近年、楚墓発掘の進展で、おおかたの埋葬が王族庶民を問わず周様式の北向き安置ではなく南を向いて安置されており、当時の<支那>では珍しい形式であるため、土着ではないかとする説がやや有力になっている。・・・
戦国時代に入ると人口の比較的希薄な広大な国土に散らばる王族・宗族の数や冗官(俸給のみで仕事の無い官職)が多くなり過ぎ、国君の権力と国の統制が弱化した。他の六国では世襲でない職業官吏や、魏の文侯、秦の恵公などの開明君主に代表される他国出身者の要職登用が成立していたが、戦国時代を通じて令尹(宰相)就任者の大多数が王族であり、それに次ぐ司馬や莫敖の位も王族と王族から分かれた屈氏・昭氏・景氏が独占するなど、旧態依然とした体制を変えられず権力闘争に明け暮れた。・・・
シャーマニズム的な要素を持ち合わせていた楚の墓中からは、「人物竜鳳帛画」や「人物御竜帛画」といったような帛画や「鎮墓獣」といった魔除けを目的とした副葬品など他国にはない出土物も多く確認されている。他国でも動物信仰は行なわれていたが、とりわけ楚では動物信仰が盛んに行なわれていたことも明らかになっている。また中原様式の建物や埋蔵品も発見されていることから、中原の影響も受けており、<支那>化も進んでいたことがうかがわれる。・・・
楚は史記の記述などから道教や鬼道が盛んな蛮夷の国であり歴史的経緯などから儒教は軽視されたと思われていたが、守役である太傅の遺物とみられる書簡群からは道家の書は老子など4編が見つかっただけで、大半は周礼を始めとする儒家の書であり、貴族子弟の教育に関しては中原諸国と同様だったと考えられる。・・・
楚の首都であった郢、後に遷都した陳の周辺や江蘇省一帯から貨幣が大量に発見されているが、貝の形を模して青銅で鋳造されている。貝貨は江北に在った中原諸国や秦・燕の他の六大国で造られた鋤形・刀形・円形の貨幣とは明らかに異質なため、南北間の交易は頻繁には行われず南に在った楚は独自の経済圏を形成していたと考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%9A_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)
「春秋戦国時代、楚の国は思想と文化が活発で、老子、荘子といった思想家や哲学者が誕生した。彼らの哲学や思想は、長く<支那>の思想や文化に影響を与えた。・・・
老子は「道が一を生じ、一が二を生じ、二が三を生じ、三が万物を生じた」という宇宙論を提起し、「有無あい生じ、難易あい成り、長短あい形どり、高下あい傾く」や「禍や福のよる所、福や禍の伏す所なり」は、事物の相互の対立と相互依存、また相互転化という弁証法関係を論じたものである。・・・
荘子は姓は荘、名は周。宋国蒙県の人。戦国時代の晩期に生きた。彼は貧に安んじて自分の道を楽しみ、「有国者のために縛られる」ことを願わず、楚王から高給で宰相にするとの招きを拒絶した。
荘子は自然への順応を主張し、人為に反対した。彼は、世界の大きさや宇宙の無限を知らない人を、「井の中の蛙」になぞらえた。彼は大と小、長寿と夭折、有限と無限はみな相対的なものであると考えた。その相対論は、人々に事物と事物の間の差異を投げうち、自然万物と人間の間の普遍的真理を探すよう導いた」
http://www.peoplechina.com.cn/home/second/2011-04/28/content_353635_3.htm
老荘がどちらも楚人であるところ、2人と同じく異色の思想家たる墨子のことも調べてみました。↓
[墨子]
「墨子は前五世紀前半に生まれ、前四世紀初頭<に>没したとするのが妥当だろう。・・・
生国については、主に三つの説がある。宋人説・魯人説・楚人説である。
宋人説については、冒頭で見たように、『史記』に「宋の大夫」と明記されていることが一つの大きな根拠のようだ。また、『史記』の中に「魯は季孫の説を聴いて孔子を逐ひ、宋は子罕の計を信じて墨翟を囚へぬ」とあることから、墨翟を宋の人としているようである。
魯人説については、孫詒譲は次のようなことを根拠にしている。それは、『呂氏春秋』愛染篇のはじめに「墨子、名は翟、魯人なり」とあることや、『呂氏春秋』愛類篇・『淮南子』修務篇に交輸般が雲梯を作って宋を攻めようとしたとき、墨子が魯から楚の都へはせつけたとある点などである。
楚人説は、『墨子』の魯問篇と耕注篇に魯陽文君との問答が多く出てくるが、魯陽は楚の領内であることから考えられたようだ。
これらの説に対して、渡邊氏は魯人説の根拠の一つとする貴義篇の中の「子墨子、魯より斉に着く」という表現は旅路の起点を示すだけのものとしている。そして、兼愛中篇で墨子が禹の治水の業績を讃えて、それにならって兼愛実践の決意を述べた部分に注目している。文中の水名・地名を手がかりに、墨子がどの地点に立っていた設定か考えていくと、それは黄河中流にあたり、地図中でも最も条件にかなうのは宋国としている。何か大きな意図があり、天下の中央に設定したとも考えられるが、宋国にあてはまる表現を細かく使う必要はなかったこと、同様の設定が非攻中篇に二つ、兼愛下篇や節葬下篇に一つずつみられること、魯問篇に宋国の授受を比喩とする対話の部分があることも併せて述べている。さらに、『史記』において司馬遷が「宋の大夫」と記したことも、説話の中の比喩を真に受けたためかもしれないと考えている。浅野氏は、貴義篇の「子墨子、魯より斉に着く」や魯問篇の「以って子墨子を魯より迎へんとす」などの記述に注目し、墨子の学団の根拠地が魯の国内に存在したことだけは確実とし、また、『呂氏春秋』当染篇の周王室より礼を伝えにきた史角がそのまま魯に住みつき、その史角の子孫に墨子が学問を受けたとする伝承にも注目し、それらを合わせると墨子は魯の人でほぼ間違いないとしている。
近年は墨子が目夷の末裔であるとされ、目夷がいた場所が滕であるということや、天候条件・交通の便などが良く、経済や文化の中心であり、良い人材が育つ社会条件が他にないくらい良く整っていたこと、船や車を先がけて発明するほど高い科学技術があったこと、墨子に関する遺跡が多くあることなどから、現在の滕<(注14)>州が有力な説になっている。」
http://chubun.hum.ibaraki.ac.jp/kano/student/99nakano.html
(注14)越が楚と同盟した後、BC473年に呉を滅ぼし、BC414年には勝を滅ぼし、更に、楚が越をBC334年にほぼ滅ぼし、BC306年には完全に滅ぼした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%95%E5%B7%9E%E5%B8%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A
「墨翟の死後、墨家は禽滑釐・孟勝・田譲に導かれて一大勢力となる」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%A8%E5%AD%90
禽滑釐は魏人、孟勝は楚で活動した、田譲は宋人。
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%BD%E6%BB%91%E9%87%90
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E5%8B%9D
https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E8%AE%93
⇒私は、墨子楚人説を採りたい。
現在、勝人説が有力のようだが、墨子の活動期間の有力説によれば、当時、勝は事実上の楚領だったし、墨子の高弟達のうち、孟勝は楚人っぽいし、禽滑釐の魏も、田譲の宋も、楚の隣国であることも考慮すべきだろう。(太田)
この2つの囲み記事↑も踏まえれば、楚から興った漢が漢人文明の原型を形成した以上は、孔子を生んだ中原の文明は非漢人文明であると言うべきか、プロト漢人諸文明のうちの一つと言うべきか、という程度の代物であった、ということになりそうです。
(続く)