太田述正コラム#13782(2023.10.11)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その7)>(2024.1.6公開)

 この際、私流の墨子楚人説を補足しておきましょう。
 そもそも、「百越(ひゃくえつ)または越族(えつぞく)は、古代<支那>の南方、主に江南と呼ばれる長江以南から現在のベトナム北部にいたる広大な地域に住んでいた、越諸族の総称<で、>・・・言語は古越語を使用し、華夏民族<(注15)>とは言語が異なると推測され、言葉は通じなかったとされ<、>・・・周代の春秋時代には、楚、呉や越の国を構成する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E8%B6%8A
というのですから、楚と呉越は似た者同士であるところ、魏も宋も勝も、楚呉越等の百越(越族)と華夏民族との境界地域の諸国だったという言い方もできるのではないでしょうか。

 (注15)「華夏族(かかぞく)は、漢の時代以前に中原の黄河流域に暮らす部族<。>・・・
 漢民族はその昔、漢民族とは称されておらず、華夏族と称されていたとされる。漢民族という名称は漢王朝(<BC>206年–220年)の時代から今日まで使われてきてはいるが、今でも本土の中国人は中国のことを華夏、中華文明を華夏文明と呼ぶことがある。学者によると、周王朝(紀元前1066年–256年)の創立者である武王が殷(商)王朝(<BC>16世紀–<BC>1066年)の末代の帝辛(紂王)を討ち取った後、中原に定住し、その一族を中国の伝説上の先聖王である神農・黄帝・堯・舜に因んで「華族」と称した。また夏王朝(<BC>21世紀–<BC>16世紀)の創立者の大禹の末裔が「夏族」と称されていたことから、中原に居住していた族群を「華夏族」と称するようになったと言われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E5%A4%8F%E6%97%8F

 その上で、私は、楚、呉、越、も、魏、宋、勝、も、広義の楚・・百越・・、と、見るに至っているのです。
 以上を踏まえれば、華夏族=漢民族(漢人)、なのではなく、百越(越族)=漢民族(漢人)、である、とも、私は見るに至っている次第です。
 興味深いことに、「文化面では、稲作、断髪、黥面(入墨)、龍蛇信仰、太陽神崇拝、鳥崇拜(河姆渡文化、良渚文化)裸潜水漁撈方法など、百越と倭人(特に海神族)の類似点が<支那>の歴史書に見受けられる。また百越に贈られた印綬の鈕(滇王の金印など)と漢委奴国王印の鈕の形が蛇であることも共通する。現代の<支那>では廃れたなれずし(熟鮓)は、百越の間にも存在しており、古い時代に長江下流域から日本に伝播したと考えられている。春秋戦国時代における越人の亡命者が九州北部や日本の各地に流入したという説である。・・・<また、>染色体<分析から、>・・・長江文明の担い手・・・が、長江文明の衰退に伴い、・・・一部・・・は南下し百越と呼ばれ、残り・・・は西方及び北方へと渡り、山東省、日本列島、沖縄、朝鮮半島へ渡ったとされ、こ<れ>・・・が呉や越に関連する倭人と考えられる。」(上掲)ことから、どうやら、百越(越族)≒日本の弥生人、と、言えそうです。
 このことを踏まえ、更に踏み込んで、私の仮説を申し上げれば、日本人の、老子、荘子、や墨子の思想、への、孔子/孟子の思想、に比してのホンネベースでの親近感は、こういったことから来ているのではないでしょうか。
 韓非子は、百越(越族)と華夏民族との境界地域の諸国の一つである韓の出身ではあるけれど、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E9%9D%9E
韓にとっては、楚とならぶもう一つの隣国たる秦との関係、というか、係争関係、の方が一貫して遥かに大きな懸案事項であって、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93_(%E6%88%A6%E5%9B%BD)
このことが、韓の公子であったところの、韓非子、の思想
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E9%9D%9E%E5%AD%90
の形成をもたらしたと私は見ており、そのこともあって、日本人は韓非子の思想への親近感が今一つなのではないか、とも。(太田)

(続く)