太田述正コラム#13784(2023.10.12)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その8)>(2024.1.7公開)

 「秦の滅亡は、陳勝・呉広という農民の抵抗が発端になってはいるが、その背後には、6国を中心とした封建制の維持を指向する氏族集団の抵抗が存在した。
 項羽は、時代に逆行するこの流れに乗り、始皇帝が完成した郡県制と大一統という「時」の流れに押し潰された。
 項羽を打倒した劉邦は、これら二つの矛盾する動きへの対応を迫られていたのである。
<彼は、>氏族制を解体して中国を統一しようとする流れを持つ、首都の長安を中心とする旧秦の支配地域に対しては郡県制を施行し、氏族制の残存する旧6国の地域に対しては、王を置いて、氏族制に親和性の高い封建制を施行したのである。
 これが、郡県制と封建制を並用する漢の郡国制である・・・。・・・
 漢の支配領域は、郡–県という形をとる郡県制と、国–県の封建制とが並存した。・・・

⇒漢の全国にわたって、基礎単位が県であり、また、国の国内の諸県にそれぞれ領主がいて、国王とこれら諸領主とがやはり封建関係で結ばれていた、というわけではなさそうである以上、漢のどこを見渡しても封建制など存在しなかったのでは?(太田)

 また、劉邦は、対外的にも、ゆるやかな統治を行った。
 北方では、冒頓単于のもとモンゴル系の遊牧民族である匈奴が全盛期を迎えていた。
 高祖の7(BC200)年の城登山の戦いに敗れた劉邦は、漢の公主[皇帝の娘]を匈奴に妾として嫁がせ、絹や酒食を毎年贈るという条件で和睦を結んだ。
 匈奴の下風に立っても、疲弊している民の休息を優先したのである。・・・

⇒そんな高尚な話ではなく、楚人同士の内戦的な戦いには勝利を収めて漢の樹立に至ったとはいえ、楚出身者が中心であった漢の軍事力が匈奴に比して弱体であったために、劉邦は匈奴との戦いに敗れ、漢は匈奴の属国化してしまい、屈辱的な平和がもたらされた、ということでしょう(コラム#10982)。
 その後、劉邦自身が匈奴に対して軍事的に捲土重来を期さなかったことは確かですが・・。(太田)

 古今東西を問わず、天下を統一するうえで不可欠なものは軍事力である。
 劉邦は、これを「馬上に天下を得た」と表現した。
 しかし、天下統一後も、そのままの軍事力を維持することは危険であり、財政も逼迫する。
 統一後の軍縮は、建国者の誰もが抱える普遍的な課題である。
 統一後の軍縮のために取られる手段は、おおむね功臣の粛清となる。・・・
 中国史上、功臣を殺さなかった建国者は、功臣に学問を勧めた後漢の光武帝<(注16)>と、涙ながらに功臣の武装を解いた北宋の趙匡胤<(注17)>の2人だけである。」(21~22)

 (注16)「後漢政権を発足するにあたって諸将に与えていた将軍号を返還させ、軍事権を皇帝の下に集約した。かわりに列侯の爵を与えて封土をもたせ、小規模多数の封邑体制をつくった。こうして、前漢の郡県制を踏襲しつつ、しかも分邑封建の措置をとった。在地豪族を官僚制に吸収して分権の効果を減じようと試みる方法である。
 思想の面でもこの集権と分権とを統合しようとする動きがある。光武帝は天命に基礎を置く図讖を尊び、しかもこれを儒家の礼に反しない経典として公認させているのである。このことは皇帝権の絶対性を呪術的非合理性において認めるというのでなく、儒教的合理性のもとにおいて肯定するという意味をもつ。皇帝権力と在地豪族勢力が前漢代の矛盾をそれなりに解決した解答が、この後漢王朝の体制と思想であったと思われる。後漢は前漢と比べて安定しており、在地豪族が地域の核として小規模の農業、商業を支えていた。国民皆兵制も廃されて、儒家的文治といわれる社会が到来した。・・・
 <ちなみに、劉秀(光武帝)は、>南陽郡蔡陽(さいよう)県(湖北省)に居住していた。祖先をたどると前漢の景帝に行き着く。父の曽祖(そうそ)にあたる劉賈(りゅうか)は舂陵(しょうりょう)侯として零陵(れいりょう)郡(広西チワン族自治区)内に封邑(ほうゆう)をもっていた。」
https://kotobank.jp/word/%E5%85%89%E6%AD%A6%E5%B8%9D-497319
 図讖(としん)は、「吉凶の予言書。荒誕のことが多い。」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%B3%E8%AE%96-1378940
 荒誕は、「おおげさで、全くでたらめであること。また、そのさま。」
https://kotobank.jp/word/%E8%8D%92%E8%AA%95-496479
 (注17)「戦乱が続いた五代十国時代の反省を受け、趙匡胤は軍人の力を削ぐことに腐心した。唐代から戦乱の原因になっていた節度使の力を少しずつ削いでいき、最後には単なる名誉職にした。この時、強引に力で押さえつけるようなことをせず、辛抱強い話し合いの末に行った。趙匡胤の政治は万事がこのやり方で、無理押しをせず血生臭さを嫌った。また、科挙を改善して殿試を行い始め、軍人の上に官僚が立つ文治主義を確立した。科挙が実質的に機能し始めたのは宋代からと言われる。ただ、趙匡胤の布いた文官支配体制はその後、代を経るごとに極端に強化され、そのことが軍事力の低下と官僚間の派閥争いを激化させる要因となり、北宋および南宋の弱体化と滅亡の要因となったことは否めない。
 趙匡胤は、自身が軍人であったにも拘らず文治主義を進め、唐末以来の戦乱の時代に終止符を打った。戦乱の時代である五代では前王朝の皇帝は殺されるのが通例になっていた。しかし趙匡胤は、前王朝の後周の柴氏を尊重し貴族として優遇したばかりか、降伏した十国の君主たちをも生かして、その後も貴族としての地位を保たせている。・・・
 <ちなみに、>岡田英弘は、「北宋は北族の王朝」として、趙匡胤は涿郡(河北省保定市、北京市の南)の人であるが、涿郡は唐はソグド人、テュルク系人、契丹人などが多く住む外国人住地であり、安禄山は営州の人で、母はテュルク系人であり、范陽郡(漢・隋の涿郡)を根拠に唐に反乱を起こしたが、趙匡胤の父の趙弘殷は後唐の荘宗の親衛隊出身であり、後周の世宗の親衛隊長になったが、趙匡胤は後周の世宗の親衛隊長から恭帝に代わり宋の皇帝となったように、突厥沙陀人の後唐の親衛隊あるいは同様に出自に問題のある後周の親衛隊長という点からして、趙氏は北族の出身であろうと述べている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E5%8C%A1%E8%83%A4

⇒劉秀(光武帝)の場合、私が定義したばかりの新しい意味での漢人性の度合いが、彼の祖先の劉邦(太祖)に比して、一層深まっている、と、見ればよさそうです。
 (なお、儒教の奨励は「学問を勧めた」と言えそうですが、儒教に組み込まれた図讖部分は学問とは到底言えないでしょうね。)
 趙匡胤(太祖)に関しては、次のシリーズで宋を取り上げる予定なので、そちらに譲ります。(太田)

(続く)