太田述正コラム#13786(2023.10.13)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その9)>(2024.1.8公開)
「・・・劉邦の時代、蕭何<(注18)>に続いて相国となった曹参<(注19)>が、儒者に政治の指針を尋ねると、人ごとに答えは違っていた。
(注18)しょうか(BC257~BC193年)。「劉邦の天下統一を輔けた、漢の三傑(蕭何・張良・韓信)の一人。・・・死に際して後継として曹参を指名している。・・・
漢王朝において、臣下としての最高位である「相国」は一部の例外を除いて蕭何と曹参以外には与えられず、「それだけの功績のものがいない」として任ぜられることがなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%AD%E4%BD%95
(注19)そうしん(?~BC190年)。「曹参は泗水郡沛県の人で、秦の時代には沛県の刑務所の属吏だった。蕭何はその時の上司にあた<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E5%8F%82
「沛県出身の劉邦が漢朝を建てると泗水郡は沛郡と改称され、旧泗水郡の彭城(現在の徐州市)及びその付近には楚国が設置された。・・・
三国時代になると沛国譙県出身の曹操が魏朝を建国<した。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%9B%E9%83%A1
⇒おー、曹操も楚人だったのですね。(太田)
そこで黄老家の蓋公を招聘したという。
⇒少なくとも、漢代においても、劉邦の頃には儒者は権威ゼロだったようで・・。(太田)
前漢初期の政治理念は、曹参、それを継いで丞相となった陳平<(注20)>、そして文帝のいずれもが尊重した黄老思想である。
(注20)ちんぺい(?~BC178年)。「陽武戸牖郷(こゆうきょう、現在の河南省開封市蘭考県)の人。・・・当初は魏咎・項羽などに仕官するものの長続きせず、最終的には劉邦に仕え、項羽との戦い(楚漢戦争)の中で危機に陥る劉邦を、さまざまな献策で救った。その後、劉邦の遺言により丞相となり、呂后亡き後の呂氏一族を滅ぼして劉氏の政権を守るという功績を立てた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B3%E5%B9%B3
⇒蕭何も曹参も陳平も、当然のことかもしれませんが、みな、楚人だったわけです。(太田)
黄老とは、黄帝と老子のことを指す。・・・
『老子』の最も基本となる思想は「道」である。
老子や荘子が道家と呼ばれる理由である。
『老子』は、修行者が道に到達し、一体となるために「無為」を重視する。
無為は、自分のうちの夾雑物を減らし、さらに減らすという否定的な態度を取ることで到達できる。
言い換えれば、無為になり道を把握するためには、鼻・目・耳・口の感覚や心の知覚を働かせず、それらを棄て去る必要がある。
道は、把握しないことを通じて把握する、知らないことを通じて知る、という一種の逆説・弁証法によって到達できるとするのである。
したがって、道を把握した得道者(とくどうしゃ)は、自己の感覚や知覚を棄て去っているので、「万物」それ自体と直接、無媒介に一体となることができる。
これが「玄同」であり、その状態が「道の把握」である。
『老子』が「道の把握」を理想とするのは、二つの理由による。
第一は「養生(ようせい)」のためである。
道が自ら生命を養い、不老不死であるのと同様に、得道者は、生命を養い、不老不死に成ることができる。
第二は「万能の政治能力を得る」ためである。
得道者は、道の持つ万能の能力を得ることにより、天下を取って帝王・天子の地位に上ることができる。
このうち第二は、『老子』の本来的な主張ではなく、後から加えられた思想であるが、前漢初期に黄老思想が尊重された理由は、ここにある。・・・
『老子』<の、この後から加えられた部分、>は、戦国と楚漢[項羽と劉邦]の戦乱を経て、何よりも休養が必要な前漢初期において、「無為」であることをこうして正統化しているのである。」(43、45、47)
⇒『老子』は、その総論は、仏教のサマタ瞑想・・止観の止・・チックな話であって、それなりの妥当性、普遍性がありそうであり、また、そこに、ここに登場したところの、純粋農業社会人たる楚人(≒倭人中の弥生人)達、の琴線に触れるところがあったのでしょうが、その各論は、デフォ部分の不老不死になれるだの追加部分の皇帝になれるだの、究極の現世利益的戯言であるところが、興覚めです。(太田)
(続く)