太田述正コラム#13792(2023.10.16)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その12)>(2024.1.11公開)

「また、酎金律は、文帝のときに、それまでの旧律に加えたものであるが、武帝はそれを厳格に運用した。
 酎とは天子が宗廟<(注28)>の祭祀に備える新酒である。

(注28)「<支那>において、氏族が先祖に対する祭祀を行う廟のこと。<支那>の歴代王朝においては、廟号が宗廟での祭祀の際に使われる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E5%BB%9F
 「廟号<の>・・・諡号との違いは、諡号が子孫が先代に対してある種の評価を交えているのに対して、廟号は歴代の先祖の列に並ぶための号である。王朝の創設者などは「太祖」「高祖」、それ以外は「漢字一字+宗」が用いられていることが多い。・・・
 歴代王朝では、周王朝から隋王朝まで、秦王朝を除き、歴代の王・皇帝は諡号で呼ぶのが通例であり、一部に初代・2代目の皇帝を廟号で呼ぶなどの例外があった。しかし唐以降の王朝は、廟号ですべての皇帝を呼ぶのが通例となった。これは唐王朝以降は、諡号が複雑長大になる傾向があったためである。
 明代以降は一世一元の制が採られ、一部の例外を除いて1人の皇帝が1つの元号のみを持つようになったため、「元号+帝」の呼び名を用いるようになった。
 清は明から一世一元の制を引き継いだので、<支那>を支配した順治帝以後の皇帝は明と同様に元号+帝で呼ばれるが、中国を支配する以前の太祖、太宗の2代は名前もしくは廟号で呼ばれる場合が多い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%9F%E5%8F%B7

⇒これを簡略化したものが、各氏族において行われていて、それに孔子が着目して儒教を樹立した、ということのようですね。
 この風習が儒教と共に朝鮮半島に伝わったのでしょう。↓
 (「世界遺産に登録されている朝鮮王朝(李氏朝鮮)の李氏宗廟」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E5%BB%9F 前掲
はあるが、仏教が重んじられた新羅や高麗の時代には宗廟はなかったようだからだ。
https://www.nara.accu.or.jp/news/heritage/korea/4.html )
 日本には天皇家の宗廟がないこと一つとっても、本来宗教であるところの、儒教、を日本が継受していないことが分かろうというものです。(太田)

 宗廟の祭祀の時に、諸侯王は資格に応じて酎のための黄金を献上した。
 これを酎金という。
 黄金の量が少なく、あるいは品質が悪い場合、諸侯王は領地を削られ、列侯は国を失った。
 ・・・前112<年>には、酎金律により106人もの列侯が、国を失っている。
 このほか、武帝は、直接的な諸侯王の弱体化も辞さず、准南王・・・や衡山王・・・が謀反を口実に滅ぼされている。・・・
 ここに、封建制と郡県制を併用した漢初の郡国制は、事実上の郡県制へと完全に移行する。
 さらに、武帝は・・・前106<年>に天下を十三州に分け、州ごとに刺史<(注29)>(しし)を派遣して、管轄下の郡守と国相を監察させた。

 (注29)「<支那>の地方官の名称。漢代に全国を13州に分け,州の下の郡県を監察するために設けられたが,次第に固定化し,州が監察区域から行政区域になるとその長官になった。後漢末から三国時代は州牧と呼ばれ,魏晋時代には兵権を掌握して軍閥化するものも現れた。宋代には実権を失い,元代には州知事の雅名としてのみ残る。」
https://kotobank.jp/word/%E5%88%BA%E5%8F%B2-73180#

 始皇帝が理想とした中央集権的な官僚制度に基づく地方統治が完成したのである。
 武帝は、<それ>・・・に加えて、漢が「漢家」ではなく、一つの「天下」を支配する帝国であることを理念的に示そうとした。
 それは天子が、時空の支配者であることを表現する元号<(注30)>の制定に象徴される。・・・

 (注30)「王暦において即位の翌年から次の天子の元号を始めることを「踰年称元」といい、即位年(先の天子の没年)から次の天子の元号を始めることを「没年称元」という。・・・
 <支那>では元号制度が正式に設けられた後も、即位改元の場合は原則として前皇帝が亡くなった年のうちは改元を行わず、新皇帝は翌年正月に改元する方式がとられた(踰年称元、踰年改元)。・・・
 ただし、王朝交替時には新皇帝の即位とほぼ同時、政変・譲位の時は新皇帝の即位と同時か間をおいて改元されることが多かった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B7

 始皇帝<は>、始皇元年・二年と年代を記した。
 漢に入ってからも、皇帝の在位の年数により、年代は記された。
 ただし、文帝のときに一度、景帝のときに二度、改元が行なわれ、文帝は文帝〇年、後〇年、景帝は景帝〇年、中〇年、後〇年と年代を記した。・・・
 <対して、>武帝は、即位の翌年からを「建元」元(前140)年、親政以降を「元光」元(前134)年と呼ぶことにした。・・・
 皇帝は元号を改めることで、皇帝の力を即位の時に立ち返らせようとする。
 それが、一種の呪術であることは、元号の制定が「封禅<(注31)>書」という・・・方士<(注32)>の主導により行われた、封禅儀礼の記録に載せられていることにも明らかである。・・・

 (注31)「封禅の儀式は、封と禅に分かれた2つの儀式の総称を指し、土を盛って檀を造り天をまつる「封」の儀式と地をはらって山川をまつる「禅」の儀式の2つから構成されていると言われている。・・・
 三皇五帝によって執り行われたのを最初としているが、伝説の時代であるため詳細は不明である。始皇帝以後では、前漢の武帝や北宋の真宗など十数人が、この儀式を行ったと伝えられている。・・・
 泰山(山東省泰安市)のふもとには、岱廟(=東岳廟)という道観(道教寺院)がある。そこでは、北宋・真宗の「大宋東嶽天斉仁聖帝碑」を始めとし、徽宗の「宣和重修泰嶽廟記碑」、李斯碑など、様々な封禅関係の遺物を観ることが出来る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%81%E7%A6%85
 (注32)「<支那>古代において〈方術〉と呼ばれる技術,技芸を駆使した人たち。〈術士〉〈方術士〉〈道士〉などとも呼ばれた。方士の起源は戦国時代の斉や燕など東方の沿海地域にもとめられ,もっぱら鬼神と通ずる術をあやつって〈巫〉に類似するが,その術は斉の学者の鄒衍(すうえん)の思想によって潤色された。秦の始皇帝は方士のすすめに従って東海中に存在すると信ぜられた三神山に〈不死の奇薬〉をもとめさせたことがあり,漢代においても方士の活動はさかんであった。」
https://kotobank.jp/word/%E6%96%B9%E5%A3%AB-132003#

 <但し、>そこには、改元により時の流れを更新することで、天下が平和となり、民が幸福となるようにという、皇帝の思いが込められている。
 しかも、改元は皇帝の専権事項であり、・・・皇帝が天の命を受けて天下を支配する天子であることを表現するものなのである。」(57)

⇒日本は元号制こそ継受していますが、その最初の大化の時も、封禅の儀式は行われなかったよう
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%8C%96-556464#
であり、あえて、道教的な儀式の継受は排した、ということではないでしょうか。(太田)

(続く)