太田述正コラム#13798(2023.10.19)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その15)>(2024.1.14公開)
「高祖劉邦もできなかった匈奴打倒を達成した武帝は、特別な天子しか行えない封禅という儀礼を行った。
梁父<(注40)>(りょうほ)に地を祀って、自らの功績を天に報告したのである。
(注40)「泰山の麓にある梁父という名の丘」
http://www.kotoba.ne.jp/word/%E6%A2%81%E7%94%AB%E5%90%9F
「泰山(たいざん)は、<現在の中共>山東省泰安市にある山。高さは1,545m(最高峰は玉皇頂と呼ばれる)。
封禅の儀式が行われる山として名高い。道教の聖地である五つの山(=五岳)のひとつ。華北平原の丘陵を見下す雄健かつ壮観な絶頂は五岳独尊とも言われ、五岳でもっとも景仰される春秋時代以来の伝統がある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%B0%E5%B1%B1
だが、霍去病が病死した後、再び匈奴と争うと戦況は悪化する。
武帝は、軍馬の劣勢を補うため、軍馬の産地である大宛を李広利に討伐させる。
二度にわたる大遠征により、・・・前101<年>、李広利は、大宛王を殺させ、多数の汗血馬<(注41)>を得て、長安に帰還した。
(注41)かんけつば。「紀元前4世紀頃から<支那>は遊牧騎馬民族の侵入を受け続けた。動作が機敏で頑健な北方民族の騎兵に比べ漢民族の使う馬は痩せて非力な馬が多く、重装した兵士が跨って戦う事ができなかった。紀元前2世紀初めの匈奴との戦いでは漢民族側の騎兵は10万頭の馬を失い、強く健康な北方の馬を手に入れることが防衛の要と考えられるようになった。
前漢の武帝時代に、西域への大旅行をした張騫の報告により、大宛(フェルガナ)にこの名馬が産することを知り、外交交渉でこれを手に入れようとしたが決裂したので2度の遠征軍を送り、多数の名馬と約3000頭の繁殖用の馬を得た。その後、漢代末までに<支那>北部では30万頭の馬が飼育されたと言われる。・・・
汗血馬という名前に関して言うと、実際に血を流していた、或いはそういう風に見えたという説も多い。馬の毛色によっては汗を流した時に血のように見えることがあるようだ。また寄生虫に寄生されている馬は実際に血の汗を流すことがある。この寄生虫による馬の能力低下はあまり無い。
寄生虫の寄生(皮膚表面での吸血)による滲んだ血液が「血を流す」ように見え、かつその寄生虫による皮膚の刺激(痛み・痒み)によって、あたかも狂ったかのように(通常の馬としての巡行走行速度や走行距離以上に)疾走したというのが汗血馬のいわれでは、という説もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%97%E8%A1%80%E9%A6%AC
武帝は、これより先に烏孫より得ていた馬を「西極(せいきょく)」、汗血馬を「天馬(てんば)」と名付け、「西極・天馬の歌」を造らせて、祭祀のときに演奏させ、その成果を讃えた。
しかし、ここに至って、財政は完全に破綻する。
大商人出身の経済官僚である桑弘羊<(注42)>(そうくよう)は、均輸法・平準法<(注43)>と鉄・塩・酒の専売により、財政の立て直しを図る。
(注42)BC150年代~BC80年。「13歳の時にその計算上の神童ぶりにより宮廷に入り、武帝に侍中に任用される。・・・
武帝が死去し昭帝が即位した紀元前81年・・・、全国の知識人が長安に招集され、その席上「専売制を廃止せよ」など桑弘羊の政策に対し痛烈な批判が行われた。御史大夫の地位にあった桑弘羊はこれに反論、その時の論争は『塩鉄論』にまとめられている。論争の結果、酒の専売が廃止されたが、それ以外の政策は維持された。
紀元前80年・・・、桑弘羊は燕王劉旦および上官桀の謀反事件に連座し処刑された(『漢書』霍光伝によると子弟のために官爵を求めて霍光に断られた恨みから一味に加わったという。・・・)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%91%E5%BC%98%E7%BE%8A
(注43)「紀元前前115年<の>・・・均輸法<は、>・・・均輸官と呼ばれる官吏を郡国に配置し、各地の特産物を強制的に徴収する。これを他の地域で転売することで財政収入を増やし、物価を調整する。・・・
紀元前110年<の>・・・平準法<は、>・・・物価が下落したときに政府が商品を購入し、物価が高騰したときに売り出す。これで財政収入を増やすが、商売に政府が介入するということで反対が多かった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%87%E8%BC%B8%E3%83%BB%E5%B9%B3%E6%BA%96%E6%B3%95
実質的に効果のあった塩の専売は、生活必需品に等しく税をかける悪税で、貧富の差を広げ、やがて武帝期以降に豪族の台頭と小農民の没落による社会不安を惹起する。」(69~70)
⇒ネポティズムが基本とはいえ衛青の場合に彼が騎射の名手であるという、戦略・戦術と直接関係のないメリットが武官登用の際に考慮されたわけですが、メリットだけで財務官に登用された桑弘羊の場合、そのメリットが計算力であって、政治経済社会についての識見ではなかったというのですから、何をかいわんやです。(太田)
(続く)