太田述正コラム#13800(2023.10.20)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その16)>(2024.1.15公開)

「・・・蘓武と李陵の行動は異なるが、漢への思いは共通である。
 二人の漢への思いから、武帝期に「漢帝国」が意識の上でも確立していたことを窺い得る。・・・ 武帝の積極的な国政運用に伴い、前漢初期の支配理念であった無為を尊ぶ黄老思想は次第に衰退していく。
 そうしたなか、董仲舒<(注44)>の献策により、太学<(注45)>[国立大学]に五経博士<(注46)>が置かれ、儒教が国教化された、と説かれることも多い。

(注44)BC176?~BC104年?。「『春秋』学の一派である公羊学を修め、景帝の世に博士になる。・・・『春秋』の内奥を探求し、陰陽説と融合させて災異思想を展開した。・・・
 同じ『春秋』学者の公孫弘の讒言で、膠西国に左遷されるなど、その平生は不遇であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%A3%E4%BB%B2%E8%88%92
 「公羊学<(くようがく)は、>・・・<『春秋』>『公羊伝(くようでん)』の解釈学、また『公羊伝』を通して『春秋』に託された孔丘(孔子)の根本理念(微言大義(びげんたいぎ))を究明する学問をいう。『春秋』に関する3種の伝のうち、『左氏伝』は古文学、『公羊伝』『穀梁伝(こくりょうでん)』は今文学(きんぶんがく)であるところから、公羊学はつねに今文学対古文学の論争を背景にもち、しばしば今文学と同義に扱われる。また『左氏伝』が歴史的なのに対して、『公羊伝』は理論的なので、公羊学も純理的、思想的な学風となり、『公羊伝』の叙述が簡略なため、公羊学は創造的な拡張解釈を特色とする。『公羊伝』が書物として整理されたのは漢初のことであり、その研究解釈学ともいうべき公羊学は、前漢の董仲舒に始まる。董仲舒を継承して、漢代公羊学を集大成したのは後漢末の何休(かきゅう)である。公羊学は、(1)左伝学派が周公を尊ぶのに対して、孔子を尊崇する。(2)父子の道を重んじ家族道徳を至上視する。そのほか倫理学的には行為の結果を問題にせずに動機を重んじ、「経に反して然る後に善なる」権を肯定し、君父の仇は「百世といえども討つべし」と復讐を強調し、「国じゅう人びと喜ぶ」ならば武力革命をも是認し、さらには侠気の礼賛、文実の二元論など、注目すべき主張が多い。・・・
 清末の康有為,譚嗣同(たんしどう),梁啓超ら<の>・・・戊戌の変法<派>・・・に受け継がれた。単なる儒教的学問を越えて政治的実践思想たらんことを目ざし,康有為に至って学的体系を完成した(《大同書》)。その内容は何休の三世説の〈升平→太平〉を《礼記》礼運編の小康・大同説に結びつけ,理想的社会を〈大同の世〉とし,清末中国の方向を進歩的に決定づけようとした。」
https://kotobank.jp/word/%E5%85%AC%E7%BE%8A%E5%AD%A6-56128
 「微言大義<は、>・・・一見なんでもない記述のなかに含まれている奥深く重要な意味,あるいは,微妙な表現のなかに隠されている政教に関する主張,のこと。特に『春秋』についていわれる。本来,『春秋』は単なる事件の記録であるが,そのなかには聖王の道がひそんでいるとされた。それは,『漢書』「芸文志」に「昔,仲尼没して微言絶え,七十子喪びて大義乖 (はな) る」とあるように,仲尼 (孔子) 以後この「微言大義」は絶えたが,彼の作である『春秋』にはそれが含まれていると考えられたからである。特に思弁性の強い春秋公羊学は,この追求に熱心であった。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%AE%E8%A8%80%E5%A4%A7%E7%BE%A9-119466
 今文学、古文学については、下掲参照。↓
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%96%87
 「何休<(129~182年)は、>・・・『春秋』を単なる年代記としてではなく、歴史の法則がふくまれた経典として扱い、『春秋』の解釈である『公羊伝』の研究を、経学の一部門として確立した。そこでは、董仲舒に一端が見られる「公羊伝が漢代に制作された」という説と、文化が「乱世<[衰乱]>・外平・太平<[升平]>」という三段階で発展するという説を強調した。清代に盛んになった公羊学で根拠とされたのは、何休が注釈をほどこした『公羊伝』である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%95%E4%BC%91
https://kotobank.jp/word/%E4%BD%95%E4%BC%91-43490 ([]内)
 (注45)「前漢の武帝が董仲舒の献策によって設置したのがはじめとされている。「太学」は儒教を正統学問とした。
 前漢の時代の「太学」は長安(現在の西安市)に設けられ、後漢の時代には洛陽(現在の洛陽市)に設けられた。学生たちは地方から選抜され、試験に応じて官に任用された。後漢の時代に学生(弟子員)の数は3万人を越えたとされ<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AD%A6
 (注46)「博士は秦からの官吏であり、古今に通じ、意見を求められた。漢初には儒家の経典のみならず他の諸子百家の経典も学官に立てられていたと考えられる。・・・
 紀元前136年・・・、武帝が董仲舒の献策・・・を聞き入れて五経博士を置いた。
 儒教では従来、これを他の諸子百家を退けて儒家のみを採用した(いわゆる儒教の国教化)と考えているが、最近では博士官に単に五経博士を増員しただけだと考えられている。最初は5人だけであり、宣帝の時期に12人に増員された。五経博士のもとには博士弟子員が置かれている。後漢では十四博士が置かれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%B5%8C%E5%8D%9A%E5%A3%AB

⇒「注44」に出てくる、升平と泰平の関係が、「→」、すなわち「異なるもの」、なのか、それとも、「同じもの」、なのか、調べがつきませんでした。
 今後の究明課題の一つです。(太田)

 五経博士とは、『詩経』『尚書(書経)』『春秋』『易経(周易)』『礼記』という儒教経典ごとに置かれた博士官のことである。
 結論的に言えば、これは班固<(注47)>の『漢書』に描かれている董仲舒への賛美を盲信した誤解である。・・・」(72~73)

 (注47)32~92年。「文学者としても・・・名高い。・・・
 母の喪のために官を辞したが、・・・89年・・・に竇憲に従って匈奴と戦った。・・・
 92年・・・、竇憲が失脚すると、班固もまた竇憲一派とされてこの事件に連座して、獄死した。
 『漢書』の未完の部分は妹の班昭が引き継いで完成させた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%AD%E5%9B%BA
 「班昭(はんしょう、45年? – 117?)は、・・・後漢の著作家。<支那>初の女性歴史家。・・・
 右扶風安陵県の人。歴史家の班彪の娘として生まれ、同じく歴史家の班固と、西域で活躍した武将である班超は兄である。・・・
 14歳で・・・嫁いだが、<夫>は早くに死に、彼女の才名を聞いた和帝が召し出して宮中に入れ、後宮后妃の師範とした。・・・
 辞賦に長じて、父の班彪の『北征賦』に対して『東征賦』を作り、『文選』に収められ、漢代女流作家の第一人者に数えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%AD%E6%98%AD

⇒班昭は、支那において、女性が知的な分野で活躍した、最初にして稀なケースではないでしょうか。(太田)

(続く)