太田述正コラム#13802(2023.10.21)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その17)>(2024.1.16公開)

「・・・武帝期より儒家が台頭したことは間違いない。
 儒者として最初に丞相となった公孫弘<(注48)>(こうそんこう)や張湯<(注49)>(ちょうとう)のように、武帝の好む法家思想を儒教で飾る儒者は重用された。

 (注48)BC200~BC121年)。「薛(せつ)(山東省滕県)の人。家が貧しく養豚を業としていたが,40余歳にして《春秋》の説を学び,武帝の初め60歳で賢良に推挙され,博士となった。態度は謹慎,法律や行政に精通し,しかもそれを飾るのに儒家思想を用いたことが評価され,累進して前124年に丞相となり平津侯に封ぜられた。粗衣粗食して賢士を招き,賓客を養ったが,性格は外面は寛大にみえて内は陰悪,主父偃(しゆほえん)を殺し,董仲舒(とうちゆうじよ)を膠西(こうせい)に左遷したのは彼の策謀によるといわれる。」
https://kotobank.jp/word/%E5%85%AC%E5%AD%AB%E5%BC%98-62647
 (注49)ちょうとう[(?~BC116年)]。「京兆,杜陵 (陝西省長安県南東) の人。初め長安の吏となり,昇進して廷尉となり,法を定めて官吏の監察を厳にし,淮 (わい) 南,衡山などの謀反の獄を治めた。次いで御史大夫となり,匈奴征伐,告緡 (びん) の令,塩鉄の専売など過酷な政策を行い,反対派に弾劾されて自殺した。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BC%B5%E6%B9%AF-98112
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E6%B9%AF ([]内)
 「丞相は地位にあるばかりで天下の事は張湯により決定されるようになった。張湯により建言された政策は天下に混乱を招き、大臣から庶民に至るまで張湯を指弾したが、一方で武帝は病気になった張湯を自ら見舞うほどの寵愛ぶりであった。」(上掲)
 「告緡<とは、>・・・漢の武帝の代に行われた申告税に対する密告制度。武帝は外征による財政の窮乏を補うため・・・前 119<年>算緡 (さんびん) の法を定め,商工業者,特に商人の資財の税を重くし,税の申告をしなかったり,申告漏れがあった者は財産を没収し,辺境守備に徴発することとした。しかしこのきびしい規定にもかかわらず徴税の実が上がらなかったため,・・・前 114<年>揚可<・・張湯の間違い?(太田)・・>の建議によって密告制を奨励し,密告者には没収財産の半分を与えることにした。このため多くの人が密告され,破産したと伝えられる。」
https://kotobank.jp/word/%E5%91%8A%E7%B7%A1-64177

⇒武帝は、公孫弘や張湯の重用からも明らかなところの、人を見る目がない点、だけをとっても暗君であったというのに、そんな武帝の時に漢が空前の大帝国になったのは何をかいわんやです。
 まさに、それは、7代目の武帝の前の、これぞ仁政と言うにふさわしいところの、「文帝および6代景帝<の>文景の治<(注50)>と呼ばれる・・・民力の休養に務めた・・・優れた統治」〔BC180~BC141年〕
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%99%AF%E3%81%AE%E6%B2%BB
の賜物以外の何物でもなさそうですね。(太田)

 (注50)「漢初は秦末期以来の戦乱によって社会経済は衰退しており、朝廷は国力の充実を図るために黄老治術を採用、民力の休養と、賦役の軽減を柱とした政策を実行した。
 文帝は農業を重視し、数度にわたり農桑振興を命じている。また一定の戸数に三老・孝悌・力田を選抜し、彼らに賞賜を与えることで農業生産の向上を図っていた。また文帝2年(紀元前179年)と12年(紀元前169年)には田租の半減を実施、文帝13年(紀元前168年)には田租の全免を実施する。これとあわせて周辺少数民族に対する軍事行動を抑制するための和平政策も実施した。
 文帝の生活自体も相当に質素であり、宮室内の車騎衣服も最低限のものとし、衣服も過度に長いものを禁じ、帷帳にも刺繡を行わないなどの徹底した倹約を行った。また諸国に対し献上品の抑制を命じている。これにより貴族官僚での奢侈が行われることはなく、その末年には民衆の生活は向上し、前漢の最盛期の基礎を築くと共に、次の時代となる武帝の匈奴遠征の物質的な基礎を築いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%99%AF%E3%81%AE%E6%B2%BB

 だが、・・・<そうではない>董仲舒<の場合、>・・・政治家としては不遇で、自己の理想を政治に反映<することは>できなかった<。>・・・

⇒しかし、董仲舒は、「公孫弘(こうそんこう)(前200―前121)に嫌われて、悪名高い膠西(こうせい)王の相に転出させられ、王の処遇は丁重であったが、病気を理由にして職を辞し、研究に専念した<ところ、>朝廷は、重大問題がおこると使者を遣わして意見を求め、董仲舒は『春秋』の理論によって解答を与えた。」
https://kotobank.jp/word/%E8%91%A3%E4%BB%B2%E8%88%92-103899
というのですから、彼は、「自己の理想を政治に反映<することが一定程度>でき」ていた、と言えるのではないでしょうか。(太田)

 人倫を説く孔子の教えは、そのままでは天子の支配を正統化しない。
 したがって、董仲舒が出現するまでの儒教は、権力に擦り寄る術が弱く、秦は法家思想、漢初は黄老思想が国家の支配理念の中核に置かれた。
 董仲舒が修めた春秋公羊学は、儒教のなかでいち早く経義を現実に擦り合わせ、武帝期の後半より次第に権力に近づいていく。」(74、76)

⇒何だか不吉な予感が・・。(太田)

(続く)