太田述正コラム#13804(2023.10.22)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その18)>(2024.1.17公開)
「このため、漢代の、そして南宋に朱熹(朱子)が現れるまでの儒教は、春秋公羊学派の董仲舒がまとめた、天子の善政・悪政に応じて、天はその政治を賛美・譴責するという天人相関論を中心的な学説とする。
人の身体に大きな関節が十二、小さな関節が三百六十六ヵ所あるのは、1年の月数と日数に対応し、五臓<(注51)>[肝・心・脾・肺・腎]が五行<(注52)>[土・木・金・火・水]に、四肢[両手両足]が四時(しいじ)[春・夏・秋・冬]に対応する。
(注51)「臓腑の実質臓器が五臓(肝・心・脾・肺・腎)で、管腔臓器が六腑(胆・小腸・胃・大腸・膀胱・三焦)です。ただし、現代解剖学には三焦に相当する臓器はありません。また、それ以外の臓腑についても、その静止機能は西洋医学よりも広い概念を持っています。[例えば、五臓の肝は肝臓のほか自律神経系まで含めた概念です。]なぜなら、江戸時代後期に西洋医学導入時、それまで中心的医療概念である漢方医学の解剖用語を借りて、西洋医学的解剖用語としたからです。なお、膵臓の膵と云う概念や腺と云う概念は、それまでの漢方には無かったので、その時になって作られた文字です。これを国字といいます。」
https://www.jsom.or.jp/universally/examination/gozou.html
https://www.kotaro.co.jp/kampo/kiso/gozo/ ([]内)
(注52)「万物は火・水・木・金・土(七曜の命令)の5種類の元素からなるという説である。
また、5種類の元素は「互いに影響を与え合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環する」という考えが根底に存在する。
西洋の四大元素説(四元素説)と比較される思想である。
「五行」という語が経典に現れたのは、『書経』の”甘誓”、”洪範”の章であった。・・・
戦国時代には、陰陽家の鄒衍や雑家の『呂氏春秋』などにより、五行説にもとづく王朝交替説(五徳終始説)が形成された。漢代には、王朝交替説が緯書などに継承されると同時に、陰陽説と結合して陰陽五行説が形成された。
元素を5つとしたのは、当時<支那>では5つの惑星が観測されていたためだったともいう。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%A1%8C%E6%80%9D%E6%83%B3
「四元素・・・とは、この世界の物質は、火・空気(もしくは風)・水・土の4つの元素から構成されるとする概念である。四元素は、日本語では四大元素、四大、四元、四原質ともよばれる。古代ギリシア・ローマ、イスラーム世界、および18~19世紀頃までのヨーロッパで支持された。古代インドにも同様の考え方が見られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%85%83%E7%B4%A0
また、人が目覚めて眠ることは、昼と夜に等しい。
すなわち、人の身体は、天の全体を備えた小宇宙であり、それゆえに人は天と不可分の関係にある。
したがって、人の頂点に君臨する天子が善政を行えば、天は瑞祥を降してそれを褒め、天子が無道であると、天は地震や日食や洪水などの災異を降してそれを譴責する<(注53)>。
これが董仲舒の天人相関論<(注54)>である。
(注53)「董仲舒の用語では、「災」は異常の度が小さなもの、「異」は大きなもので、本質的には同じである。・・・
後漢になると、占いの書である『易経』をもとにした易学者との交渉により、過去だけでなく将来発生する事件を予言する神秘的な讖緯説へと発展していった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%81%BD%E7%95%B0%E8%AA%AC
(注54)「『春秋繁露』で・・・説<いた。>・・・
<支那>の過去の王朝の歴代皇帝は、地震や干ばつが長引いた場合など、災害が起きた時には、必ず「罪己詔」を発し、自らを才の無い、徳の無い人間であると称し、正殿を避け、食を減らし、己を罪とし、助言を求め、罪を犯した者を赦し、隠すことのない直言を求める詔を下し、誤ちを補った。
天人相関説はやがて俗信と化し、占卜の域を出なくなる。後漢では王充により「天文は純然たる気の運行にすぎず」として批判された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E4%BA%BA%E7%9B%B8%E9%96%A2%E8%AA%AC
王充(27~97年)は、「王充の思想の特徴は、この世界の森羅万象を気・・エネルギー・・によってとらえた点である。・・・
讖緯・陰陽五行説など・・・の非合理を批判し合理的なものを追求した『論衡』を著す。その著書において儒教に対しても厳しい批判を行なっていることから、北宋以降は異端視されて省みられることがなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%85%85
⇒天人相関の主張そのものはハチャメチャですが、その果たした役割に照らし、天人相関論、それなりの評価はしたくなります。(太田)
ただし、天は、すべての人に感応するわけではない。
天は、天命を降して統治を委ねた天子の行為に感応して瑞祥と災異を降す。
それにより、天子を生み出した責任を果たすのである。
天人相関論において、天は主宰者であり、超越的存在者として、天子の支配を正統化するとともに、これを批判する存在とされている。
ここに儒教は、人格的な主宰神を持つ宗教となる準備を整えた。
本来、宗教ではなかった儒教が、国家支配を正統化する過程で、宗教化していくのである。」(76~77)
⇒私は、儒教の宗教化は、孔子廟が孔子の霊を祀っている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AD%90%E5%BB%9F
ことから、孔子の神格化によって始まった、という認識でしたが、天の人格神化によって起こったとの、著者の指摘は興味深いですね。(太田)
(続く)