太田述正コラム#13820(2023.10.30)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その26)>(2024.1.25公開)
「・・・王莽は、元帝の王<政君>皇后の弟王曼<(注77)>(おうまん)の子である。・・・
(注77)「王莽が誕生した直後亡くなる。そのため、兄弟の一族は朝廷で取り立てられ権力をもって華やかな生活を送る中で、王莽の一家のみ権力を持たず陰に置かれ、王莽だけが親戚とは別に不遇な日々を送<った。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%9B%BC
前2<年>、哀帝が崩御すると、元大皇太后・・・は、王莽を召し、国政の全権をゆだねた。
王莽は、董賢の悪を暴いて自殺させ、没収した董氏一族の財産を売却する。
その額は43憶銭に達した。・・・
王莽は、自らを周公<(注78)>に準えるため、益州に示唆して、夷狄より白雉<(注79)>を献上させる。・・・
(注78)周公旦(?~BC1037年)。「次兄にあたる初代武王存命中は兄の補佐をして殷打倒に当たったとだけとしかわからない。
周が成立すると曲阜に封じられて魯公となるが、天下が安定していないので魯に向かうことはなく、嫡子の伯禽に赴かせてその支配を委ね、自らは中央で政治にあたっていた。・・・
武王の死により、武王の少子(年少の子)の成王が位に就いた。成王は未だ幼少であったため、旦は燕の召公と共に摂政となって建国直後の周を安定させた。・・・
その後、7年が経ち成王も成人したので旦は成王に政権を返して臣下の地位に戻った。・・・
武王が崩御した後に旦は本当は即位して王になっており、その後成王に王位を返したのではないかとの説もある。・・・
その後、洛邑(洛陽、成周と呼ばれる)を営築し、ここが周の副都となった。
また旦は、礼学の基礎を形作った人物とされ、周代の儀式・儀礼について書かれた『周礼』、『儀礼』を著したとされる。旦の時代から遅れること約500年の春秋時代に儒学を開いた孔子は魯の出身であり、・・・旦を理想の聖人と崇め<た。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E5%85%AC%E6%97%A6
(注79)はくち。 「白色のキジ。突然変異として出現することがあり、古代には瑞祥とされた。」
https://kotobank.jp/word/%E7%99%BD%E9%9B%89-600351
白雉は、周公が政治を執っていた際に現れた瑞祥である。・・・
こうして王莽は、安漢公<(注80)>を賜与されたのである。・・・
(注80)「王莽は三公の上に太●<(人偏に専)>・太師・太保・少●の四輔をおき、自分自身は太●・大司馬となり、安漢公という尊号をたまわ<った。>」
https://www.google.com/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&ved=2ahUKEwio_vGPwpqCAxVbCYgKHU99BMoQFnoECC4QAQ&url=https%3A%2F%2Ffukuoka-u.repo.nii.ac.jp%2Frecord%2F915%2Ffiles%2FL3804_1335.pdf&usg=AOvVaw0XtEh6YbVtXoqkQu8nosll&opi=89978449
「周公の故事」は儒教経典により規定されたものである。
漢が実際の政治の中で行ってきた「漢家の故事」を超えて、経典による理念を加えることで、「古典中国」という普遍的な規範を形成していくのである。・・・
王莽は、『尚書大伝』<(注81)>を中心とする周公が居摂のまま践祚したという経義を典拠に、自らの居摂践祚を正統化した。
(注81)「紀元前1世紀頃に作られ、今文学派の著作に属している。本書の内容の多くは『尚書』から各種の奇譚や怪談を引き出すものであり、学者によってはこの書を漢代の讖緯の学の影響を受けたものであるとする。『四庫提要』はこれを緯書の一種であるとして『尚書』の分類の末尾に附している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%9A%E6%9B%B8%E5%A4%A7%E4%BC%9D
しかし、周公を典範とすれば、君主の地位の返還が必要となる。
王莽は、『尚書大伝』の周公像より離れる典拠を「制礼作楽」の典拠とともに古文学に求めた。」(134~135、137、141)
⇒「元帝が皇太子の時代、寵愛していた女性が死亡して大変落ち込んでいた。そこで、宣帝は王皇后・・先祖は劉邦と同郷の沛の人・・に命じて後宮の女性から皇太子のそばに仕える女性を選ばせた。その中に入っていた女性の一人が王政君であり、皇太子は王政君を選んだ。王政君は子(後の成帝)を産み、元帝の皇后となった。宣帝が死亡し元帝が即位すると、王皇后は皇太后となった。・・・元帝が死亡し成帝が即位すると、皇太后は太皇太后となった。皇太后王政君も同姓であったことから、太皇太后は邛成太后と呼ばれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E7%9A%87%E5%90%8E_(%E6%BC%A2%E5%AE%A3%E5%B8%9D)
という王-王コンビが、結果的に漢の一時滅亡をもたらしてしまった、というわけです。(太田)
(続く)