太田述正コラム#13822(2023.10.31)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その27)>(2024.1.26公開)

 「・・・劉歆<(注82)>は、黄門郎<(注83)>として同僚となり、哀帝期の古文宣揚により左遷された自分を抜擢してくれた王莽に対する思い入れがあった。・・・

 (注82)りゅうきん(?~23年)。「前漢の宗室の身分である。・・・
 成帝のとき、黄門郎となり、父の劉向と共に秘書(宮中の図書)を校訂した。父の没後、その業を継ぎ、哀帝のとき、全ての書物の校訂を終了し、現存最古の書籍目録である『七略』を作り奏上した。また、古文経である『春秋左氏伝』『毛詩』『逸礼』『古文尚書』を学官に立てることを主張したが、今文学者たちの激しい反対に遭った。
 平帝の<時のAD>5年・・・、律暦の考定を試み、三統暦を作った。王莽の新朝では古文経を学官に立て、劉歆を「国師」に任じた。この時度量衡の改訂にも関わり、自分の理論に基づき標準器である「嘉量」を設計した。
 ・・・23年・・・、王莽に息子を殺害されたことを恨みに思っていた劉歆らは謀反を企てるが失敗し、自殺した。・・・
 清の常州学派の人々は、劉歆が古文経を偽作したと考えており、顧頡剛・幸田露伴らも、その考えに近い説を発表している。特に問題なのは『春秋左氏伝』を偽作したのは劉歆ではないかという説が古くからあることで、幸田露伴は、劉歆ないしその一門が『史記』を改ざんして元来『春秋』の注釈書ではなかった『春秋左氏伝』を、あたかも注釈書の如く見せかけるようにしたのではないかと疑っており、顧頡剛は、『国語』から劉歆が『春秋左氏伝』を創作したのではないかと考えている。・・・
 五徳終始説とは、王朝の交替・変遷を五行の循環で説明するものであり、前漢では五行相克説に基づき、王朝の徳は土→木→金→火→水の順序で循環し、漢朝は土徳であるとしていた。劉歆はこれに対して、五行相生説に基づく新しい五徳終始説を唱え、五徳は木→火→土→金→水の順序で循環し、漢王朝は火徳であるとした。この理論が新朝から北宋までの1000年間、継続して用いられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E6%AD%86
 (注83)「黄門侍郎<(こうもんじろう)は、>・・・天子のそば近くに仕え、禁中において職務に従事し、禁中の外との文書の受け渡しを担当します。また、王(諸侯王)が宮殿内で朝見するにあたり、王(諸侯王)を誘導して着座させます。・・・後漢=○・魏=○・蜀=○・呉=黄門郎」
https://three-kingdoms.net/10535
 「日本の官職を唐名で呼ぶようになったとき、中納言は中国のこの官職に相当すると見なされて「黄門侍郎」、後には略して「黄門」と呼ばれるようになった。例えば、水戸の中納言(徳川光圀)は「水戸黄門」という具合である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E9%96%80%E4%BE%8D%E9%83%8E

 <だからこそ、劉歆は、>古文、なかでも自らの手により世に広めた『春秋左氏伝』の中に、王莽に有利な記述を差し込むことに、大きな抵抗はなかったと思われる。・・・

⇒劉歆は超名家出身だったわけですが、志の高さと低さとを併せ持ったところの、世にも珍しい大秀才だった感があります。(太田)

 堯が舜に禅譲したことは、『史記』などの記述により周知のことであった。
 したがって、堯の子孫である漢<(注84)>が、舜の子孫である王莽に禅譲する、経学的正統性はここに整えられた。」(144、149)

 (注84)「祁姓・・・劉氏<は>堯の子孫である。堯の嫡流(堯の嫡男の丹朱、堯の長男の祁監明の子の祁式、堯の九男の祁源明の説がある)の子孫が劉邑に封じられ、以来その地名を氏としたという。
 祁姓劉氏からは、夏孔甲の代に龍を御する名手として劉累が現れている。龍の病死後、劉累は家族を伴って魯陽(現在の河南省魯山)に逃れた。これが河南劉姓の起源とされる(一説には、劉累の故地は河南偃師であったともいう)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E6%B0%8F
 「劉累(りゅうるい、生没年不詳)は、夏王朝の重臣。帝堯の子孫。劉氏の始祖で、漢の劉邦は劉累の123世の孫と称した。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E7%B4%AF

⇒「銭大昕は「劉太公(劉邦の父)以前は姓を考えるような身分ではなかった。どうして祖先の姓がわかるだろうか」と述べている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E6%B0%8F 前掲
ところ、まことにもってその通りであり、劉邦がそんな大ぼらを吹いたことが、王莽に対し、劉歆を利用して漢を簒奪するお墨付きを偽造する口実を与えてしまった、というわけです。(太田)

(続く)