太田述正コラム#13826(2023.11.2)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その29)>(2024.1.28公開)

「後漢を建国した光武帝劉秀は、・・・中国歴代国家の建国者の中でも、一二を争う教養人である。
 自ら軍を率い先頭に立って戦うタイプではない。
 事実、兵を率いて立ちあがったものは、兄の劉縯(注90)であった。・・・

 (注90)りゅうえん(?~23年)。「22年・・・挙兵<。>・・・更始帝により誅殺<。>・・・
 劉縯にはふたりの子がおり、長男の劉章と次男の劉興は、光武帝(劉秀)が政権を樹立した・・・26年・・・、それぞれ太原王(後の斉王)と魯王(後の北海王)に封じられた。・・・
 なお、北海靖王劉興(劉縯の次男)の庶子の劉復が臨邑侯に封じられ、その末裔は『三国志』で著名な劉備であると伝わる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E7%B8%AF

 23・・・年2月、劉縯の本家筋で族兄にあたり、・・・凡庸な劉玄<(注91)が>更始帝とし<て擁立された。>・・・

 (注91)?~25年。「曽祖父は舂陵侯劉熊渠。祖父は劉利。父は劉子張。母は何氏。後漢の光武帝(劉秀)の曽祖父の劉外は劉熊渠の弟にあたるため、光武帝の族兄にあたる。・・・
 9月、更始帝陣営がついに長安・洛陽を陥落させ、王莽の首級を得ている。・・・
 長安遷都後の更始帝は奢侈な宮廷生活に染まり、即位の朝政を夫人の父の趙萌に一任してその専権を放任した。・・・
 赤眉軍<によって、>・・・殺害された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B4%E5%A7%8B%E5%B8%9D

 劉秀は、・・・25年・・・即位・・・し、元号を建武と定めた・・・。
 のちに光武帝<(注92)>と諡<おくりな>される。」(172~173、176)

(注92)BC6~57年。「23年(更始元年)夏、更始帝討伐を計画した新の王莽は洛陽から100万と号する(戦闘兵42万、残りは輸送兵)軍を出発させた。しかし王莽は軍事の知識・経験に乏しく、新軍に63派の兵法家を同行させる、猛獣を引き連れるなどの常識外れの編成を行った。・・・
 <他方、劉秀は、>戦場では、多くの戦いで最前線に立って自ら得物を奮い、皇帝に即位後の鄧奉戦・劉永戦などでも、大軍を持ちながらなお最前線で騎兵を率いて戦った。
 <しかし、>天下統一後は危急でなければ戦のことを口にせず、皇太子(後の明帝)が戦について尋ねても、「むかし、衛の霊公が軍事のことを問うても、孔子は答えなかった。これはおまえがかかわるべきことではない」と答えなかった。・・・
 「隴を得て蜀を望む」「志有る者は事竟に成る」「柔よく剛を制す」・・・などの言葉を残している・・・。・・・
 前漢末以来の混乱で中国は疲弊し、前漢最盛期で約6千万人となった人口が光武帝の時代には2千万ほどに減少していた。・・・
 光武帝が統治の根拠とした儒教は讖緯説と結合したものであった。前漢後期以来盛んに行われた讖緯説は予言などの神秘主義的な要素が濃いものであり、王莽もこれを用いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%AD%A6%E5%B8%9D
 「陰麗華(いんれいか)は、後漢の光武帝(劉秀)の皇后で明帝の母。諡は烈で、諡号としては夫の諡を重ねて光烈皇后(こうれつこうごう)。・・・
 劉秀と同じ南陽郡新野県出身の豪族陰氏の娘で、近隣でも評判の美女として、挙兵前の光武帝もあこがれるほどであったという。更始元年(23年)に劉秀に嫁いだ。
 建武元年(25年)に劉秀が光武帝として即位すると貴人として洛陽に迎えられた。しかしこの時、光武帝が後に娶った郭昌の娘である郭聖通(郭貴人)が先に男子の劉彊を産んでいた。光武帝は陰貴人を皇后に擁立したいと思うものの、陰麗華は男子を産んでいないことを理由に断った。
 建武2年(26年)に劉彊は皇太子になり、郭貴人が皇后に立てられた。建武4年(28年)、陰麗華は劉荘(後の明帝)を産んだ。建武17年(41年)に、郭皇后がそのわがままな性格から、光武帝に疎まれるようになり皇后を廃されたため、陰麗華は皇后に、建武19年(43年)に劉荘は皇太子に立てられることになった。
 建武中元2年(57年)に光武帝が亡くなると、劉荘が即位し、陰麗華は皇太后となる。陰麗華の生活は、皇后になってからも質素であったという。また、己の一族には政治に関与させないようにした聡明な女性でもあった。このため、唐の太宗の皇后である長孫皇后や明帝の皇后の馬皇后と並んで、<支那>史上でも優れた皇后の一人として称えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B0%E9%BA%97%E8%8F%AF

⇒文武とも王莽より優れていた・・著者の「劉秀は・・・自ら軍を率い先頭に立って戦うタイプではない」の典拠は?・・けれど、王莽が始めた復古主義カルトに染まってしまっていたところの、劉秀は、そのこと自体が後漢の永続を阻むこととなると共に、カルトならぬ儒教一般が内包する武の軽視を劉秀が当然視していたこと、が、後漢のみならず、その後の支那諸王朝のアキレス腱となった、と、言えそうです。
 それはそれとして、光烈皇后はごリッパですねえ。(太田)

(続く)