太田述正コラム#13830(2023.11.4)
<渡邊義浩『漢帝国–400年の興亡』を読む(その31)>(2024.1.30公開)
「・・・明帝の子である章帝<(注94)>は、儒教に基づき寛治<(注95)>(かんち)と呼ぶべき、ゆるやかな統治を推奨するとともに、白虎観会議<(注96)>を主宰して、小文学と今文学の経義を調整する。・・・
(注94)57~88年。皇帝:75~88年。「19歳で即位した。同時に嫡母である馬皇后(光武帝の有力部将馬援の娘)が皇太后に立てられて後見した。馬皇太后は身を慎み、実家の馬氏一族が高位に取り立てられることを拒んだので、章帝の時代には、後漢王朝の宿弊となった外戚の専権が表に現れることはなかった。生母の賈貴人は、明帝の正妻である馬皇后と従姉妹同士で仲が良かったといわれる。
父の明帝が法治政治を行ったのに対し、章帝は幼少の頃から儒学を好み、儒学の徳目に適った寛容な徳治政治を敷いた。そのため、経済や文化は大きく発展した。・・・
西域との交通は、新の滅亡後から後漢の初め頃まで一時途絶えていたが、明帝のときに再び本格的な進出が始まった。章帝の時代も匈奴とそれに与する西域諸国との戦いが続き、・・・87年・・・には、班超らの活躍により、長らく漢に叛いていた莎車を服属させることに成功した。
馬皇太后の死後(79年・・・)、皇后竇氏は子がなかったため、皇太子劉慶の生母の宋貴人と別の皇子劉肇を生んだ梁貴人を憎んでおり、讒言して2人とも死に追いやった。劉肇は皇后の養子となった。
82年・・・、皇太子劉慶を廃して清河王とし、皇子劉肇を皇太子に立てる。
88年・・・崩御。その後、10歳の劉肇が和帝として即位し、和帝の擁立を取り仕切った竇氏は皇太后として幼い皇帝に代わって政治を執り、その実家の竇固を初めとした竇氏一族が権勢を振るうようになった。こうして後漢は、外戚によって政治を左右される時代に入り、支配体制に揺らぎが生じるようになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%A0%E5%B8%9D_(%E6%BC%A2)
莎車(さこ)。「かつて存在したオアシス都市国家。現在の中華人民共和国新疆ウイグル自治区カシュガル地区ヤルカンド県にあたり、タリム盆地の西に位置する。一時期はタリム盆地一帯を支配したこともあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8E%8E%E8%BB%8A
(注95)「後漢国家に特有な支配は,前漢時代の儒教的な支配である「徳治」とは異なる支配である。前漢時代の「徳治」が、循吏<(じゅんり)>による治水・灌漑や儒教による教化政策であったことに対して、後漢の儒教的な支配は,「寛治」と名づくべきものであった。「寛治」とは,後漢国家の支配の具体的な場において,在地社会における豪族の社会的な規制力を利用する支配であり,後漢時代における儒教は,それを「五<教>在寛」という理念によって正当化した。こうして後漢国家は,「寛治」という儒教的な支配によって,自己の支配を豪族を利用しながら現実のものと成しえたのである。」(渡邊義浩(著者))
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-05710218/
(注96)「光武帝によって立てられた十四博士を中心として発展した今文学に対し、民間においては古文学が勃興し、両者の対立は特に『春秋』における「公羊伝」と「左氏伝」の解釈の相違に現れた。これらの今文学説・古文学説の比較研究、総合折衷を行い、政治支配の理論を強化する必要があった。
そこで、章帝の・・・79年・・・11月から数か月間、かつての石渠閣の議論に倣い、白虎観に学者を集め、経書の解釈について議論させた。議論は五官中郎将の魏応が問を発し、侍中の淳于恭が議論をとりまとめて、最終的な判断を章帝が下すという方式で行われ、その議論の結果を班固に編纂させた。・・・白虎通義<である。>・・・
後漢の公式の学問は今文であり、今文の説のみを採用しているが、日原利国によれば、王莽が古文学派の説を採用したため、王莽を否定する白虎観会議では表向き今文派を勝たせなければならなかったものの、『春秋左氏伝』が君父を重視するなど古文の説の中にも利用価値の高い思想が多かったため、実質的には今文・古文を包摂した内容になったとする。
渡邉義浩<(著者)>によれば、王莽は儒教にもとづく政策を行ったが、当時の儒教が現実離れしていたために失敗し、白虎観会議で儒教の国教化が完成したとする。
後漢の経学の特徴として緯書を引くことが多いのも特徴である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%99%8E%E9%80%9A%E7%BE%A9
「前漢の宣帝<のBC51年の>・・・五経の異同を校訂した・・・石渠閣会議(せっきょかくかいぎ)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%98%E9%9C%B2_(%E6%BC%A2)
<寛治については、>76・・・年・・・詔を下し・・・『尚書』堯典に「五教は寛にせよ」とあることを典拠として、農業を勧め、人材を登用し、なるべく刑罰を行わない寛治を励行せよと天下に告げた。
続く和帝<(注97)もこの政策を>継承<した>。」(186~187)
(注97)79~106年。皇帝:88~106年。「当初は幼少のため養母の竇太后とその兄の竇憲<(とうけん)>ら竇氏一族の専横を許していたが、成長するに及んでこれに対し反感を抱くようになり、実権を自らの元に取り戻そうと考えるようになった。一方の竇憲らも和帝の反感を察し、これを害そうと画策し始めた。この動きを察知した和帝は、ひそかに竇氏誅滅を計画した。
和帝が密謀の相談役に選んだのは宦官の鄭衆<(ていしゅう)>であった。彼を用いたのは、宦官ゆえに密謀を行うに都合がよいことと、鄭衆自身が皇帝に対する忠誠心の厚い、明晰で行動力のある人物だったからである。・・・92年・・・、竇憲を宮廷内におびき出し、大将軍の印綬を取り上げ実権を剥奪、領地において自殺を命じた。これにより和帝は竇氏一族から政治の実権を取り戻すことに成功した。
鄭衆はこの功績により鄲郷侯に封じられ、大長秋の官を授けられた。和帝はその後も鄭衆を信任し続けたため、これ以後宦官が政治に深く関わるようになった。鄭衆自身は政治的には確かに有能で、しかも私心のない人物であったから、彼が政治に参与していた間は問題が表面化することはなかったが、それ以降の宦官の多くは、政治的には無能で金銭に貪欲な人物が多く、彼らの跳梁により政治の腐敗が深刻化した。
また和帝が若くして死去すると、幼帝の補佐として和帝の皇后である鄧氏の一族が外戚として政治の実権を握るなど、外戚勢力も復活した。以後の後漢でも幼帝が続き、その度ごとに外戚勢力と宦官勢力との間で激しい争いが続くことになる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E5%B8%9D_(%E6%BC%A2)
⇒「徳治思想<は、>・・・儒教における政治思想<であり、>国を治めるには、権力や武力によらず、為政者の人徳によって教化すべきであるとする。その意味で、天子は最高の徳をそなえた聖人でなければならないとされた<ところの、>王道政治の思想。」
https://kotobank.jp/word/%E5%BE%B3%E6%B2%BB%E6%80%9D%E6%83%B3-582745#E7.B2.BE.E9.81.B8.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9B.BD.E8.AA.9E.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8
であるところ、そもそも、皇帝に不可能を強いるとともに、軍事を軽視をもたらしたところの、絵にかいた餅的ナンセンスだった私は考えていますが、寛治は確かに実行可能ではあるものの、官僚制の整備を等閑視するとともに軍事の軽視を放置し、外戚勢力と宦官勢力の跳梁を許した結果として、後漢が滅亡に至ったのは当然である、と、言いたいですね。(太田)
(続く)